「下禮拜考試一考完,我們又自由了。」
前幾天,聽到學生的話之後,我忍不住說了底下這些話。 「說到自由,所有的生命都一樣,沒有誰是擁有真正的自由的。
因為所有的生命或多或少都被某些束縛綑綁著。植物被困在泥土或水裡,動物被關在個自生存的空間裡。
即使因為船或飛機等等交通工具而能夠來去自如的人類,也受限於各種事物。應該做的事情、不得不面對的人生與人際關係,還有義務與責任等等…。 對我們而言,所謂自由常常只是躲開一切時,偷閒所享受一點短暫時光而已。幸好,大部份的人只要偶爾能夠擁有那些我們以為的自由,就知足了。」 「那死掉的話,不就自由了?」 孩子說。
「死後的世界是什麼樣子,沒有人知道,又怎能知道那裡有沒有限制呢?」 「那怎麼樣才能擁有真正的自由?」孩子問。
「或許,能夠享受所有不自由的時刻的時候,身心能夠因為解脫了而變得自由也說不定。」我回答。
2013年11月26日 FB舊貼文
《自由というもの》
「来週の試験が終わったら、自由は再び私たちの手に入るものだ。」
先日、生徒から上の話を聞いた後、私は次の話を言わずにいられなかった。
「自由について言及するならば、全ての命は同様に、どれも本当の自由を持っていないと思う。
すべての命は多かれ少なかれ幾つかは/何かによっては束縛されているからだ。
植物は土壌或は水の中で縛られて、動物はそれぞれの生存空間に縛られている。
たとえ舟や飛行機などの交通機関で自由な行動ができるような人間でも、いろいろな物事に縛られている。
するべき事、直面しなければならない人生と人間関係、それから責任と義務など...。
だから、普通の人にとっての自由とは、ただ全ての事から暫く逃れて、短い時間を享受する(楽しむ)ことだと私は思う。
幸いなことに、多くの人がたまに自分は自由を持てると思っているならば、満足だ。」
「死んだら、自由になれるんでしょ。」と子どもが聞いた。
「死後の世界はどんな様子って誰も知らないので、制限/制約があるかどうか誰かが分かるの?」
「ならば、どうすれば自由を持てるのですか?」と子どもが聞いた。
「もしかしたら、自由でない時間を享受するなら/楽しめるなら、心身は解脱されて/心身が安らかで 自由になれるかもしれない」と私は返答した。