ようこそ岸田呉服店へ

2024/03/23閱讀時間約 11 分鐘

 

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基隆市義重町にある岸田呉服店


2024年の初めに、私はある湾生(台湾で生まれた日本人)のルーツを探すため、日本統治時代の基隆について調べ始めた。そして「岸田呉服店」が岸田文雄現首相と関係があることを知った。しかし早い時期に呉服店の歴史を公けにした人が伝えた情報に誤りがあり、その誤情報がインターネット上で流布されて、台湾の人々に誤解を与えただけでなく、日本でも引用されて広まったことは残念でならない!

岸田呉服店に関する資料はあまり残されていないが、過去の発展の姿を私なりに復元してみよう。以下、「岸田兄弟と呉服店」、「旧岸田呉服店所在地」、「岸田呉服店について」の3つのサブテーマで、台湾や日本と深い関係にあった岸田呉服店について、読者をより正確な理解に導くことができればと思う。


岸田兄弟と呉服店

 

台湾は、日清戦争によって明治28年(1895)日本に割譲され、大日本帝国の植民地となった。

翌明治29年(1896)、岸田文雄首相の曽祖父である岸田幾太郎が広島から基隆に来て、呉服と木材の貿易に従事した。

明治30年(1897)、幾太郎(長男)は、弟の多一郎(二男)と光太郎(三男)を呼び寄せ「岸田兄弟商会」を結成し、呉服、雑貨、木材の販売を3人で行った。


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明治32年(1899)、長男の幾太郎は日本にもどり、基隆での事業は2人の弟に引き継がれた。この時点の屋号は「岸田兄弟商会」のままであった。

明治34年(1901)、岸田兄弟商会は解散し、二男の多一郎と三男の光太郎は別々の道を歩むことになる。多一郎が「岸田呉服店」の名で呉服の販売に携わる一方、光太郎は木材の販売をする「岸田材木店」の経営者となった。

明治39年(1906)、長男の幾太郎は中国の満州に渡り、明治41年(1908)40歳で死去する。

大正2年(1913)多一郎は現在の基隆市信二路と義二路の交差点に位置する「哨船頭192-2」に赤レンガ造りの岸田呉服店を新築した。筋向いにある振利雑貨店(後に大倉商行と改称)と久恒医院もその頃建築されている。

 

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新岸田呉服店のご案内

  

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大正2年(1913)、岸田呉服店の新社屋が完成

  

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大正12年(1923)、大倉商行に関するレポート

  

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新岸田呉服店が基隆市中心部にオープン

  

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大正12年(1923)、大倉商行が操業を開始した


以上により、以下の4点を確認することができる:

1、岸田文雄首相の曽祖父(岸田幾太郎)は、時代の流れを敏感に察知し、的確なビジョンを持って、明治29年(1896)に台湾に渡り、呉服や木材の販売事業を始めた。翌明治30年(1897)には2人の弟を台湾に呼んで共同事業を行うなど、優れた実業家であったことがうかがえる。

2、明治34年(1901)、「岸田兄弟商会」は解散し、「岸田呉服店」と「岸田材木店」に分割されたが、岸田文雄の曽祖父(長男・幾太郎)は既述の通りそれ以前の明治32年(1899)には台湾を離れている。従ってネット上に「岸田文雄の曽祖父が『岸田呉服店』を創業した」とあるのは明らかに誤りで、幾太郎は呉服の売買はしていたが、呉服店を立ち上げたのは二男・多一郎である。正確に言うなら「岸田文雄の曽祖父は『岸田呉服店』の前身である『岸田兄弟商会』を弟二人と共に創業した」であろう。この点に注意すべきである。

3、岸田幾太郎は明治41年(1908)に他界し、その5年後の大正2年(1913)に二男の多一郎が岸田呉服店を新築した。したがって、幾太郎は現存する岸田呉服店の建物の建築とは関係がない。

4、新しい岸田呉服店の建物は、現在の基隆市信二路と義二路の交差点に位置し、建築から現在2024年まで111年を経過している。

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2024年の岸田呉服店



前述したとおり、岸田文雄首相の大叔父にあたる岸田多一郎が「岸田呉服店」のオーナーとして、信二路と義二路の交差点に新しい呉服店の社屋を建てた。

首相の曾祖父(岸田幾太郎)は多一郎に起業の機会と方向性を与えただけで、多一郎の努力によって、岸田呉服店は基隆の呉服業界でその地位を占めた。

  

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基隆の呉服店の広告

  

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以上、岸田兄弟と呉服店の関係を明らかにした上で、多一郎が経営する岸田呉服店の元の場所がどこなのかを探ってみよう。


旧岸田呉服店所在地

  

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画像ソース:https://www.facebook.com/photo/?fbid=5012189468808568&set=p.5012189468808568&locale=zh_TW

 

明治34年(1901)の「臺報」に掲載された重要な広告には、当時の岸田呉服店が「基隆哨船頭街119番」にあったことが明記されている。

この年は前述したように岸田兄弟商会が解散した年であり、商会が呉服・木材・雑貨の取引を行っていたことが広告と符合することから、旧岸田呉服店は哨船頭街119番地にあったと考えられる。

  

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また、明治45年(1912)年に発行された台湾実業家名録には、岸田多一郎の住所は「基隆街哨船頭119」とあり、これまでと変化はない。岸田多一郎はここで店を持ち、居住していたことがわかる。

しかし新しい岸田呉服店は「哨船頭192-2」にあり、同じ哨船頭ではあるが、新旧呉服店の場所に違いがあることは明白である。

すなわち、明治34年の「岸田兄弟商会」の解散から明治45年まで(1901~1912)、多一郎は同じ場所(哨船頭119)で「岸田呉服店」を営み、翌年の大正2年(1913)に新店舗(哨船頭192-2)に移転したのである。

次に、当初の岸田呉服店がどこにあったかを考察しよう。 


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哨船頭115番地籍データの変換

 

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哨船頭200番地籍データの変換


昭和6年(1931)、基隆市は町名を変更したため、「地番改正異動通知書」から、哨船頭の115番と200番が義重町6丁目にあることは明らかであり、旧岸田呉服店(哨船頭119番)も義重町6丁目にあったことは間違いないと判断できる。

  

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義重町6丁目のエリア

  

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新旧岸田呉服店の位置図

 

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新旧の岸田呉服店は埋立地にはない

  

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旧岸田呉服店は哨船頭街のどこかにある


基隆百年歴史地図システムによって、義重町6丁目のエリアを知ることができ、それを異なる時代の地図と重ね合わせれば、日本統治時代の基隆港の建設前と建設後の違いを見ることができる。

地籍情報がないため、哨船頭街119番の位置を特定することはできないが、おおよその位置はわかるので、参考資料として提供する。どなたであれ、さらに研究を続けて新しい事実があきらかになることは大歓迎だ。

 

 岸田呉服店について

  

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最後に、岸田呉服店についてより深く理解していただくために、若干の情報を付け加えておきたい。

資料によると、昭和7年(1932)まで岸田呉服店の店主は岸田多一郎であったというから、明治34年(1901)に独立して以来、多一郎は30年以上(1901~1932)呉服販売を営んでいた。 また、花蓮にも支店を出すなど、商才にも長けていたようだ。

  

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興味深いのは、大正2年(1913)に岸田多一郎が建てた岸田呉服店の新店舗については同じ場所でありながら「哨船頭192-2」、「義重橋1」、「義重町2丁目18」という3つの異なる地番があることだ。

新築された岸田呉服店の建物は今も存在しているが、その外観の写真はインターネットや様々な文化財の中にしかなく、店内のレイアウトや調度品を垣間見ることはできない。しかし我々は他の呉服店の写真から店内の様子を想像することは可能である!

 

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台北市柏屋呉服店の店内

  

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台北市近江屋呉服店の広告


この記事を終える前に、岸田呉服店のある通りにあったすずらんの街灯について話そう!

昭和5年(1930)、基隆市役所の勸業課は、商店街を美しくするために義重町にすずらんを形どった街灯を設置する計画を立てた。

昭和6年(1931)、勸業課と商和會の協力で総工費3,800圓の商店街美化事業が開始された。材料はすべて日本から輸入され、千鳥の形をしたすずらん街灯が、義重橋から明比商店前まで11間(約20メートル)間隔で、片側25個、両側合計50個設置され、義重1丁目から5丁目まで設置された。 (岸田呉服店の写真が昭和6年以前か以後かは、すずらん街灯の有無でわかる)


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昭和5年(1930)、基隆のすずらん街灯の関連記事  


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昭和6年(1931)、基隆のすずらん街灯の関連記事


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岸田呉服店前のすずらん街灯 

 

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基隆市義重町におけるすずらん街灯の分布

  

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昭和6年(1931)以前の岸田呉服店

  

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昭和6年(1931)以降の岸田呉服店

 

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賑やかな義重町は、基隆銀座として知られている

昭和6年(1931)に登場したすずらんの街灯は、基隆の喧騒を究極の形で表現したものだったが、なぜ消えてしまったのか。台湾日日新報の報道から、すずらん街灯の運命を探る。


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台北市のすずらん街灯は昭和17年に解体された

  

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台南市のすずらん街灯は昭和17年に解体された

  

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新竹市のすずらん街灯は昭和17年に解体された

  

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台中市のすずらん街灯は昭和17年に解体された

  

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昭和16年に金属回收令が公布


第二次世界大戦が激しさを増すにつれ、日本政府は戦略物資を緊急に必要としていたため、昭和16年(1941)9月1日に「金属類特別回收令」が施行され、台湾社会はそれに応え、再資源化した。 偉人の銅像、寺院の銅鐸など、私たちの身の回りにあった金属製品は、回収され、溶かされ、戦場で兵器と化す運命から逃れることはできなかった。

昭和17年(1942)、台北、台南、新竹、台中のすずらん街灯は次々と撤去されたが、基隆市義重町の街灯はどうなったのか? 台湾日日新報に関連報道はないが、基隆市も昭和17年に金属リサイクルキャンペーンを実施しており、同時に撤去されたはずである!

昭和20年(1945)、日本の敗戦と降伏によって第二次世界大戦が終結した。 終戦前、昭和6年から17年にかけて、基隆の街にはすずらん街灯が登場し、今では現存する写真からその明るく美しい光景を思い出すしかない。

  

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昭和17年に基隆市で金属回収運動


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画像ソース:https://www.facebook.com/photo?fbid=4345222988901297&set=gm.4963642660316803


最後に、この記事を完成させることができたのは、前基隆市長の林右昌氏、ネットユーザーの林宜錦氏、David Wu氏、Jimmy Lin氏、田中淳氏のおかげである。皆さんがまず先駆者として探ってくれなければ、この記事はどうやって始めればいいのかわからなかった!

残された資料は限られているが、そこからでも何か新しい事実を見つける事ができるはずだ。 岸田呉服店がその歴史を再認識される時が来たのである。私の目と手を通して新しい事実を世に知らしめる事ができたのは喜びである。

岸田呉服店が今も営業されているとすれば、百年店として123年(1901~2024)、建物自体も111年(1913~2024)の歴史となったはずである。空襲や戦後の取り壊しから逃れ、今日までそれを維持するのは本当に容易なことではなかった。

最後までお読みいただきありがとうございました!日本の岸田家の皆さんは、この記事を読んで、ご自分たちのルーツを探りに再び義重町に足を運んでいただけるだろうか。華やかな街、基隆は皆さんに感動を与える。

 






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