1895年日清戦争に勝利した日本は、台湾を植民地として獲得し、次々とやってきた日本人がこの地で子供や孫を設けた。台湾で生れた日本人は、いつの頃からか「湾生」と呼ばれるようになった。
1945年日本は太平洋戦争に降伏し、50年にわたり台湾を統治してきた日本人は1947年までに強制送還された。日本に引き揚げた人々にとっては残酷な事実であるが、かっての彼らの故郷は、異邦の地になってしまった。しかし彼らには台湾で過ごした想い出があり、それが台湾を訪れる原動力となっている。
2015年に公開されたドキュメンタリー映画『湾生回家 Wansei Back Home』は、台湾において好評を博した。映画により、過去の思い出を抱いて、あるいは自らのルーツを探しに来る日本人を、台湾の人々が温かく歓迎してきたことがあきらかになり、湾生の話題も多く取り上げられた。
この『湾生回家』が日本でも公開されると、多くの湾生は、自らが湾生であること、あるいは湾生の子孫であることを直視し、自分のルーツを探そうと台湾を訪問するようになった。
彼らは、私の知る限り、希望を持って台湾に来たものの、先祖の生活や体験など、詳しい事実を知ることができず、失望して帰るしかなかった。
しかしながら近年、台湾では日本統治時代の書籍や公文書が徐々にデジタル化され、情報の収集や入手が容易になっている。さまざまなデータベースを通じて、湾生やその子孫たちが、先祖の過去の人生を直接的に、あるいは間接的に理解できるようになったのは、インターネットの進歩のおかげである。
私は2000年以来、日本人のルーツをたどるお手伝いをしている。 最初に接した湾生は、「台湾協会新聞」に連絡を取った 鹿子嶋昭 氏で、偶然その新聞を読んだ私は、協力を思い立った。
その後も、湾生やその子孫が台湾にルーツを探しに来ているというニュースに接すると、自発的に彼らの先祖の足跡を探した。そして子孫とコンタクトを取り、子孫のもっている情報にプラスして、より詳細な情報を渡してきた。すべて、私の善意による無償のサービスである。
2024年12月現在、私がこのサービスを始めて24年になるが、時の流れの速さに少し驚いている。
私の情報源は、近年台湾において徐々にデジタル化された、日本統治時代の書籍や公文書であり、これらはすべて無料のリソースである。これによって、適切なキーワードで検索して、特定の個人の情報を得ることが容易になった。
さまざまなデータベースを通じて、湾生やその子孫たちが、過去に何があったのかを直接的に、あるいは間接的に理解できるようになったのは、インターネットの進歩のおかげである。
データベースを利用するまでは、湾生が親や祖父母から聞いた話や、台湾の戸籍謄本から得られる情報程度でしかなかったが、インターネットを通じて得るデータベースからは飛躍的な情報が手に入る。
データそのものは、シンプルな文字の羅列であるが、職歴や居住歴などだけではなく、それを掘り起こせば、特定の人の貴重な思いにまでたどりつくことができる。
私がよく使うデータベースは以下の通り。
臺灣總督府職員錄系統
臺灣人物誌
臺灣百年歷史地圖
臺灣日日新報
日治時期圖書影像系統
データベースの検索を通じて、私は湾生やその子孫たちと親交を深めてきた。また私がインターネットとデータベースによって、日本人のルーツをたどる手助けをしたことで、屏東県政府から表彰されたこともあった。
以下の記事は、私たちの交流の様子をお伝えするものである。
●友人の思い出 - 湾生竹中信子さん
https://vocus.cc/article/65cb849ffd89780001477cef
●お帰りなさい ! 松本さん !
https://vocus.cc/article/662d0b53fd89780001272552
●祖父・伊東竹二 明治27年(18才)からの履歴 (竹二の記録1) byモニカ
https://kaikyou.exblog.jp/238826479/
また私自身、以下のようないくつかの記事を完成することができた。
●ようこそ岸田呉服店へ
https://vocus.cc/article/65f39a06fd8978000122731f
●鶯遷閣の物語
https://vocus.cc/article/6715e6befd897800012c1adb
時が経つにつれ、台湾で生まれた日本人の数は減っていく。しかし湾生の子孫は引き続き、自分自身のルーツを求めて台湾にやってくるだろう。ご自分のルーツを探したい湾生の方は、私にご連絡いただければ無料でお手伝いいたします。
私の電子メールは次の通りです:wanseinotomo@gmail.com
どうぞお気軽にご連絡ください。
みなさんが後悔しないことを願っています。
どうぞよろしくお願い致します。