今回sci-conの発表会の後、数多い日本の聴衆から質問してきて、台湾の「良し」と「悪し」をより詳細に説明して欲しいですって。私がより完璧的・徹底的に説明したいのですが、通訳に助けてくれた友人に大変忙しくなる恐れですので、茲にて少しだけ、より深い補充説明を書いてみます。
「好し」が、台湾にて常に聞いてくる、生活にての問答主題です。
例としては「こうしたら好し?」「これがより好し?」等、道徳的或いは価値的に絶対性を持つ「正しい」と比べ、台湾人が確実に、相対性の「好し」に気になる。
「正しい」が一種類、簡単で明快なる状態で、全ての問題が一つ「絶対正しい標準的な答え」があることを信じ、その標準的な答えで答えないと、間違いである、悪である、良しくないである。
「好し」が一種類、時代と環境に連れて絶えずに変化する限界線で、前の時代に「好し」と判断されることが、次なる時代にて「好くない」或いは「邪惡」となる可能性がある。
具体的に言えば、台湾の「好し」が、一種類道徳的に主動的な意味を持つ状態以外、更に「どうやってこの時代に旨く生きること」というスマート的な標準に言って宜しいでしょう。
台湾の「好し」の基本要求は、今という時代に生存することであるため、「好し」の標準も必然的に環境及び政治の影響を受け、違う時間の流れの中にて、違う変革で対応する。
この時代の変わりに連れる「好し」の標準が、同時に「惡」の限界線にも影響する。
「好し」というややこしい概念に相対する「惡し」が、相対的に単純になる。
「好し」が時代によって変わる生存標準に対し、「惡し」がこの生存標準の下、「手段を選ばなくなるまでの限界線」です。
例を挙げると:
台湾にて、「二二八事件」と言う、社会のエリートが一気に消えた惨劇を発生し、その後の“白色恐怖時代”の中、「好し」の標準が瞬間的に、「生き残して好し」まで、低い標準になった。
生き延びる為、どんな手段を使っても好し!との結果が、あの時代の台湾人が非常に心細く生きられ、政治を言う事勿れ、思想を言う事勿れ、全て自分の命を害する話を言う事勿れ。手段を選ばずに自らを隠し、自らを守り、他人を忌ましめ、他人を防備することになった。
これらが「惡し」の行為でしたが、生き延びる為の「好し」になるため、そうすることしか出来なかった、そうすることに惜しまないのです。
もう一つの例ですと:
より良い中学・高校と大学に受かる為、輝ける学歴を達成する為の「好し」。
惜しまずに子供を小さい頃から塾に行かせてしまい、授業時間が親たちの出勤時間より長くなり、或いはバックドアでパイプを疎通し、子供によりでかい優勢を持って良い学校に入れること、或いは古典的にお金を使い、先生を雇って放課後にて課業強化をして、子供にこのような放課後の課業強化しか学べない「試験に必ず出る」内容を伝授する等。
先述べた行為も同じく「惡し」ですが、良い学校に受かる為の「好し」が、多くの親たちが惜しまずにそうする、或いはそうさせられるのです。
台湾「好し」「惡し」がお互いに依存する文化の中核が、相当にややこしくて、深沈でダークな歴史を背負ったのです。今日の我々が前人の犠牲と努力によって、比較的に明るい所で、より世界の普遍的な価値観と繋げる位置で、これらの内容を討論及び発表することが出来たのです。
この「好し」「惡し」がお互いに依存すコアが、皆様が聞いたことのあるA.H.マスローの“欲求階層説”と対照することが可能だと思う。
一番そこにある「生存」、「安全」から、より高い段階の「社交」、「尊重」へ、最終的に「自己実現」ですね。台湾の「好し」の標準が、このように一歩一歩、攀じ登ったのです。
この「好し」の標準が高ければ高く昇ると、「惡し」の限界線が相対的に制限される。最低限の「生存する為、何でもできる」から、一番高い所の「『好し』の目標と価値を実現する為、ある事は絶対やってはいけない」まで、台湾がずっと、この「好し」と「惡し」の限界線をバランスする過程を繰り返している。
政治や生活、文化や創作にも関わらず、全ての台湾人がずっと、所謂「義利の弁」を進行してあり、時代の変わりに連れて、達成したい目標を変える––つまり「好し」の方向と、目標を達成する為の手段––「惡し」の限界線の調整です。
但し、我々の最終的な目的が、既に定めた。それが「好し」に決まるのです。
先住民の時代にて、彼らの「好し」が、資源が無くなる心配は無しこと。
日本統制の時代にて、彼らの「好し」が、日本人と互角になり、更に追い越せること。
蒋介石統制の時代にて、彼らの「好し」が、生き残ること。
我々の時代にて、我々の「好し」が、自由、民主、独立なる未来永続。
台湾の文化核心がそれ程安定ではなく、原因が今までに絶えずに外来的な文化を吸収してあり、自らの内容を立ち直ってる。
但し、我々が前進する方向が、とっくに前から決めましたことで、それが「我々は小国小民ですが、我々も好国好民です」。
台湾に専属する文化主体性が未だに定論が無いのですが、私が一つ肯定出来るのは、その文化は絶対に、「好し」を追求し,「惡し」を包容し、時代の変遷に連れて、「我々は悪との距離」を旨く制御する、という文化です。
この時代の「好し」を達成する為,我々がどのような程度の「惡」を許せるのか?
これは我々は悪との距離です。
これは台湾文化の核心です。
追記:
定論無しですが、概略的な方向を持つ、台湾文化主体性を言及したのであれば、私もここにて、台湾文化主体性の可能な方向を一つ提出しましょう。
それが「私は全部欲しいです」。
時代毎の「好し」を追求すると同時に、一つ「邪悪的な弾性を保持する」。
好しのも欲しい、悪しのも欲しいです。
私は全て欲しいです。
私は全て欲しいです。周星馳の映画「九品芝麻官」の名場面。