2025年5月16日
這一天是從北九州市的小倉驛出發,搭乘JR列車沿著日田彥山線前往田川市。沿路都是有採礦歷史的地方,但不盡然是煤礦,像是其中一個車站就叫做採銅所驛,而在香春驛附近有一座香春岳、由石灰岩所構成,共有三個山峰,其中一個原本是最高的一之岳,先前因為開採石灰岩,山峰直接被剷平、目前僅剩原高度的一半,山頂留下一面大平台。從田川市石炭記念公園的廣場遠眺,可以看見被剷平的香春岳一之岳;香春岳前有兩座較小的山丘,則是捨石山。田川市石炭記念公園
田川市的石炭記念公園,就在田川伊田驛的西南邊,這裡原來是三井田川鑛業所的伊田坑。就如同在〈跟著寅次郎去旅行:筑豐篇〉所介紹的,在車站月台就可以看見兩根大煙囪,還有一座豎坑櫓遺構。出車站左手邊有通道可以通往位於後站的公園,一進入眼簾的,果然就是那兩根大煙囪,那原本是鍋爐房的一部份,目前鍋爐房已經不存,僅剩兩根大煙囪,高45.45公尺。
另外,第一豎坑留有豎坑櫓的遺跡,跟志免鑛業所的高塔式不一樣,這裡的豎坑櫓是三角錐式的鋼結構,高約28.4公尺、豎坑內徑約5.5公尺、利用深度是314公尺,接下來的行程會介紹到的豎坑櫓,也都是三井的遺址、都是類似的形式。第二豎坑櫓位置就在大煙囪前,本來也有留存,移到直方市石炭記念館展示,後來不知為何拆掉了,目前原位置僅剩解說碑。

三井田川鑛業所伊田坑鍋爐房遺存煙囪

三井田川鑛業所伊田坑第一豎坑櫓遺構
三座礦殤紀念碑
在兩根大煙囪背後的山坡上,很明顯可以看到有一座慰靈碑。走近一看,那是紀念日本帝國殖民統治時期,從朝鮮半島「強制連行」至此、因強迫勞動挖礦而犧牲的「徵用工」。石碑鐫刻如下所示,碑座有韓文碑文,一旁另有日文翻譯文碑石。
韓國人徵用犧牲者慰靈碑
右側題詩(原文為直書橫排):
生于大韓 死於異國 無數冤魂 孰不痛惜
在此同胞 豎碑記蹟 昭昭英靈 庶幾臨格
左側落款:
西紀一九八八年四月 日
在日本大韓民國居留民團福岡縣田川市支部
韓國人徵用犧牲者慰靈碑 建立委員會 謹豎
田川市石炭記念公園的廣場上,有非常多紀念碑(後詳),裡面還有田川市石炭‧歷史博物館,展示非常豐富、資訊量非常大,可以花一整天在這園區內細細觀賞。然而,絕大部分人在介紹時,都忽略了背後山坡上還有三座慰靈碑,如果不是因為「韓國人徵用犧牲者慰靈碑」位置非常明顯,我可能連這一座都沒看到。我回台灣之後繼續搜尋要寫遊記的材料,才赫然發現旁邊還有「田川地區 炭坑殉職者慰靈之碑」以及「強制連行中國人殉難者 鎮魂之碑」。遺落這兩座碑未能探訪、到碑前致敬,實在是此次福岡行最大的失誤,尤其是已經近在眼前卻不知。
關於這三座慰靈碑的相關資訊,可以參考「日本1000公園」〈石炭記念公園(福岡県田川市)その2〉與「下関・筑豊フィールドワークの旅」〈田川市石炭記念公園と石炭・歴史博物館〉,這兩篇文章的內容與照片。在同一個地點,同時有紀念日、韓、中三國礦殤受難者的紀念碑,相信是極為難得的。這三座礦殤碑的日文碑文,附記於文後的附錄。

韓國人徵用犧牲者慰靈碑
廣場上的眾多紀念碑
前面提到,田川市石炭記念公園的廣場上,有非常多紀念碑。由東向西依序是:「全國塵肺患者同盟記念植樹」碑、山頭火俳句碑、炭坑節之碑、橋本英吉文學碑、筑豐塵肺訴訟記念碑「我們不是捨石」、炭坑夫之像、捨石山意象造型、「炭坑節發祥之地」碑。
橋本英吉小時候被過繼至田川伊田當地,曾經在伊田坑這裡入坑工作過數年,後來成為普羅文學作家,他的礦坑及其他勞動經歷,成為他創作普羅文學的素材。「炭坑夫之像」跟「炭鑛犧牲者復權之塔」一樣,都是由一對男女礦工所組成,位於廣場眾紀念碑之中間位,但不管是現場或網路上,都沒看到關於此像之介紹,包括建像緣由及作者等。

炭坑夫之像

「全國塵肺患者同盟記念植樹」碑

筑豐塵肺訴訟記念碑「我們不是捨石」,背景可見香春岳
而筑豐塵肺訴訟案,開始於1985年12月26日,一群筑豐地區的塵肺症礦工共169名,向三井鑛山、三井石炭、三菱、住友、古河、日鐵等六家全國性大礦業公司,以及日本政府,提起塵肺症賠償的訴訟。訴訟期間為了動員群眾與提升輿論,1991年9月24日,在飯塚市嘉穗劇場,聚集了一千名觀眾,舉辦名為「我們不是捨石」(“俺たちはボタじゃない”)的集會。高等法院裁定六企業與政府有賠償責任,隨後古河、三菱、住友與三井集團陸續與塵肺症礦工達成和解。2004年4月27日,最高法院駁回政府和日鐵的上訴,福岡高等法院的判決成為最終判決,至此,在18年餘的訴訟期間,169名塵肺症礦工之中已有144名去世。「筑豐塵肺訴訟記念碑」的日文碑文,亦可見文末附錄。
至於「炭坑節」,這並不是一個節日,而是一個曲調,據說由田川地區的礦工民謠〈伊田場打選炭唄〉(選炭場女礦工的洗煤歌)演變而來,戰後隨著唱片的出版、以及NHK的播放而流行全國。「炭坑節」主版本的歌詞提到煙突,就是指石炭記念公園的兩根大煙囪,而礦業勞動有不同工種,因此炭坑節也有不同的歌詞版本。後來炭坑節結合盂蘭盆節時的盆舞(盆踊り),成為節慶歡樂時的舞樂。
炭坑節雖然不是節日,然現在田川市每年都會舉行「炭坑節祭」,等於是將它節日化。當天許多民眾會一起聚集在石炭記念公園的廣場,邊唱炭坑節邊跳盆舞。去年2024的「炭坑節祭」是在11月2-3日,按連結可見活動網頁。另外,炭坑節因為結合了盆舞,有人拍攝了相關的舞蹈動作與手勢,教導大家如何跳炭坑節盆舞,影片中有主版本的歌詞。

炭坑節緣由之解說牌與背後的捨石山意象造型

「炭坑住宅紀念碑」展示之老照片
至於田川市石炭‧歷史博物館館內的展示,留待下一篇遊記介紹。在市區的田川市美術館旁邊,有一處「炭坑住宅紀念碑」(炭坑住宅モニュメント),這裡是三井田川鑛業所的其中一處礦工住宅所在地,現在只留了一面牆作紀念,現場有若干老照片與解說,並在地面實際標示了先前礦工住宅的格局與大小。
平成筑豐鐵道糸田線沿線的礦殤紀念碑
接著我搭乘平成筑豐鐵道的列車,順著糸田線與伊田線前往直方市,在鐵道沿線附近,有若干礦殤紀念碑。田川一帶有不少朝鮮死難礦業「徵用工」的慰靈碑,像是田川市民球場旁邊,就有一座「田川翔魂之碑」;而在遠賀川河畔的法光寺內,則有「朝鮮人炭鑛殉難者之碑 寂光」。寂光碑旁邊另有一座「橫島炭坑殉職者弔魂碑」,橫島炭坑據說是附近一座小礦。
接著沿平成筑豐鐵道再往前一站,附近的貴船神社內,有一座「豐國炭鑛鎮魂之碑」。豐國炭鑛開業於明治23(1890)年,原來屬於三井財閥經營,明治32(1899)年6月15日發生爆炸事故,死亡與失蹤者共210人;明治40(1907)年7月20日又發生爆炸事故,死亡與失蹤者共365人,是明治時期最嚴重的礦坑災變,後來由明治鑛業接手。
大概是因為豐國炭鑛的煤炭生產供應海軍所需,所以鎮魂碑由當時的海軍大將東鄉平八郎題碑,原先立在礦場內。昭和37(1962)年9月,豐國炭鑛閉山,鎮魂碑被移到貴船神社。鎮魂碑背面有碑文,碑座底部有豐國炭鑛各坑的坑口題字碑,旁邊還有各坑的標誌石之類。
再往前一個車站,河對岸社區裡有「真岡炭鑛第三坑殉職者慰靈碑」。但我覺得前兩天實在走得太累了,列車班次不多又會延後行程,所以就跳過了,直接前往直方驛。

朝鮮人炭鑛殉難者之碑 寂光

豐國炭鑛鎮魂之碑
直方市石炭記念館園內雕塑
關於直方市石炭記念館的展示內容,留待下一篇遊記,與田川市石炭‧歷史博物館一起介紹,這裡僅簡單介紹記念館庭院內的幾座雕塑。一走入庭院大門,首先進入眼簾的,就是一座「坑夫之像」,這座作品最早落成於昭和29(1954)年,由雕塑家花田一男所創作,原來題為「炭掘之戰士」,是混凝土材質,設立在JR前身國鐵直方驛前。平成八(1996)年,坑夫像被移到遠賀川畔的河濱公園內,令和三(2021)年又被移置到記念館的庭院內,改以「坑夫之像」稱之。因為原作品已經太過脆弱,目前的雕塑似乎是銅材質複製品、尺寸比原來的作品小。這個網頁有略為交代這些遷移過程與演變。
在坑夫像旁邊,另有一座規格較小的雕塑作品,題為「挑戰燒燙之石」(“焚石に挑む”),由三名礦工所構成,因為現場及網路上都缺乏相關資訊,無法進一步介紹。記念館庭院內尚有展示若干礦業機關車,與礦場使用的機械、台車等。在庭院的最尾端、救護練習模擬坑道的末端處,則有一座炭礦殉職者慰靈碑。
這天的行程就在直方市結束,我回到北九州市拿行李,接著繼續趕往下一個住宿地熊本。下一篇介紹過直方市石炭記念館與田川市石炭‧歷史博物館之後,筑豐的行程就告一段落,終於要進入三井三池炭田的地盤。

坑夫之像

「挑戰燒燙之石」像

炭礦殉職者慰靈碑,背後是救護練習模擬坑道
附錄:
- 「韓國人徵用犧牲者慰靈碑」碑文(原文為韓文,旁邊另有日文翻譯文,這裡引用的是日文碑文)
この世に生をうけたものは、皆等しくその生を享受することができる。
鳥は空に舞い、魚は水に遊び、命の限り生を楽しむ。まして、万物の霊長たる人間は、さらに言うまでもない。
思えば、大韓帝国末期、日本は「日韓併合」の美名のもとに人道に悖る政策を断行した。特に第二次世界大戦が勃発するや韓国人の徴用、強制労働は、さらに苛酷なものになった。
なつかしい故国と父母、妻子、兄弟、姉妹、親戚とも引き裂かれ、不慣れな風俗、人情の地、日本に強制連行され、戦争にかり出され、また、労役に苦しめられた。そして、ついには、夢寐にも忘れぬ父母、妻子、美しい故国の山河を二度と見ることもなく逝ったのである。
されば極まり無い数多くの御霊の痛恨はいかばかりであろう、いつになったら晴れるであろうか。
歳月は無情にも流れ、はや40有余年を重ね世の中は大きく変わった。しかし、この先いかに歳月を重ねようとも、この凄惨な事実が埋もれてしまうことがあってはならない。
よってこの地に在住する同胞ここに集まり、ささやかながら、この石碑を建立する。
否塞な国運と共に犠牲となった同胞の御霊を末永く慰め、再び不幸な時代を繰り返させぬよう戒めの標とするものである。
冥界の御霊よ、願わくばその恨みを忘れ給え。そして安らかにねむり給え。
- 「田川地區 炭坑殉職者慰靈之碑」碑文
昔、燃える石と言って重宝がられた石炭は、明治維新による西洋文化の導入と、産業の近代化に伴い、筑豊は我が国最大のエネルギー源となった。富国強兵の国策は不幸にして、日清日露の戦役となり、満州、支那事変と止まるところを知らず、遂に、世界を二分する太平洋戦争に突入、爾来4年、人類史上計り知れない惨禍と犠牲をもたらし、昭和20年8月15日終戦を迎えたのである。
失意と絶望と廃墟の中に起ち上がった我が国は、驚くべき努力と英智によって、ここに世界の経済大国として再び奇蹟の復興を遂げたのである。戦争中には徴用や各国捕虜等、老若男女を問わず石炭増産に狂奔し、また戦後は祖国復興の為、大小300余の炭坑、中小無数の採掘の活況は実に壮観であった。然し一方、瓦斯爆発、落盤、出水、坑内火災等の被害も又甚大で殉職者は推定2万人とも言われている。やがてエネルギー革命により、100年にわたる炭坑の灯は消え栄枯の歴史の幕は閉ざされた。
今日、吾が郷土の発展の陰には、貴いこれら炭坑殉職者のいることを決して忘れてはならない。茲に奇しくも地域住民、諸団体等の賛同のもとに、此の碑を建立し、諸霊のご冥福を祈り感謝の誠を捧げるとともに、末永く筑豊炭田の歴史を伝えんとするものである。
芦馬豊雲撰文
旁邊另有「慰靈之詩」碑
煙突翳絕竿碧天 百年象徵轉寂然
想起炭鑛殉難慘 痛哭長仰靈碑前
平成元年十月吉日 芦馬豊雲
- 「強制連行中國人殉難者 鎮魂之碑」碑文
かつて15年戦争の末期(1943年~1945年)日本政府は国内の労働力不足を解消し、戦時下の生産力を維持するため、当時侵攻していた中国大陸での中国軍俘虜および行政供出によって中国人38935名を日本国内に強制連行した(内6830名死亡)と記録されている。
その中で、三井鉱山田川第二・第三坑に668名が送り込まれ、終戦まで石炭生産に従事させられたのである。その間、6名が作業現場で災害により殉職、21名は病死(内3名獄死)で不帰の人となった。これら殉職者の冥福を心から祈るものである。歴史を鑑に恒久平和を願って・・・
- 「筑豐塵肺訴訟記念碑」碑文
二○○四年四月二十七日、最高裁判所がわが国で初めて職業病に対する国の賠償責任を認めた日である。
原告たち炭鉱労働者は、戦中戦後の日本経済を筑豊の地底から支えてきた。
その筑豊の炭鉱を国は、スクラップ・アンド・スクラップ政策によって一挙に閉山に追い込んだ。
炭鉱を追われた原告たち炭鉱労働者を待っていたのは、不治の病『じん肺』であった。繰り返すセキとタン、動悸、息切れ、呼吸困難の発作、そしてじん肺死であった。
“俺たちはボタじゃない”
一九八五年十二月二十六日、原告たち炭鉱労働者は、企業だけでなく国に対して、筑豊じん肺訴訟を提起した。
炭鉱の安全管理を指導する国は、企業の石炭政策を優先し、原告たち炭鉱労働者がじん肺にかからないための施策を怠ってきた。
永い裁判闘争が続き、原告たち炭坑労働者が次々に志半ばにして命を奪われていった。
原告たち炭鉱労働者とその妻たちは、街頭に立って支援を呼びかけ、多くの労働者、市民と結束してじん肺被害の償いとじん肺の根絶を求め続けた。
筑豊じん肺訴訟の十八年四ヶ月は、炭鉱労働者とその妻たちがじん肺被害の償いとじん肺根絶のために誇りをかけて挑んだ闘いである。
筑豊じん肺訴訟の最高裁判所判決はすべての労働者・すべての市民のための救済の羅針盤となった。
これは、“俺たちはボタじゃない”と結束して闘った原告たち炭鉱労働者とその妻たちの勝利の証である。
筑豊じん肺訴訟記念碑建立実行委員会
実行委員長 大野隆司
1985.12.26~2004.4.27