出典:『南部台灣紳士錄』,台南市:株式會社台南新報社,明治40年(1907)2月16日出版。
日本統治時代の台南市には、宴会料理で有名な「鶯遷閣」(おうせんかく)という日本料理店があった。歓迎会、送別会、開店祝い、祝賀会など、宴会を開くにはうってつけの場所で、美味しい料理と宴会を盛り上げる芸者衆によって、鶯遷閣での食事は五感を大いに楽しませてくれた。
店主は奈良県出身の龍見亀蔵で、明治6(1873)年生まれで明治43(1910)年に40歳足らずで早世をした。
亀蔵の妻・龍見りと によると、亀蔵は明治30(1897)年に台湾に渡り、翌明治31(1898)年に台南で料亭「立花亭」を開いたのち、明治37(1904)年に料亭「吐月」を買い取り、吐月の跡地に料亭「鶯遷閣」を開いた。彼の死後も「鶯遷閣」の営業は昭和18(1943)年まで続けられた。
明治33(1900)年に出版された『台南事情』という本には、明治31(1898)年に創業された龍見亀蔵の料亭「立花亭」は、その後店主が変わり、龍見亀蔵は「牛磨後街」に新しい料亭「橘」を構えた、とある。
この「橘」の開店時期は不明だが、のちに買い取った「吐月」を合体して明治37(1904)年「鶯遷閣」が誕生した。このように営業が順調に拡大した事実は、龍見亀蔵の経営手腕を示すものである。
明治43(1910)年、亀蔵の死亡後、鶯遷閣の経営は妻の龍見りと に託された。彼女は夫の遺志を継いでその後33年間営業を続けた。
この二人については、以下のようなことがわかった。
まず夫亀蔵は明治6(1873)年生まれであるが、妻りと は3歳年上で明治3(1870)年生まれである。
戸籍によると、夫妻はともに「奈良縣山邊郡朝和村字兵庫」の出身であり、26番地と38番地に住んでいたことがわかる。
渡台時には24歳と27歳だから同郷のカップルとして既に結婚していたと思われる。
台南での居住地登録は龍見龜藏は「丁262番地」、龍見りと は「丁263番地」。隣り合った住所ではあるが、居住地登録なので別の家に住んでいたかのように見える。気になって調べてみた。
『台南市改正町名地番便覽』によると、龍見龜藏の住所「丁262」は「高砂町1丁目31」で、「鶯遷閣」の所在地(以前は料亭「吐月」のあった場所)だった。
龍見りとの居住地「丁263番地」は、後の「高砂町1丁目30番地」。このことから、居住地については龜藏が店のある鶯歌閣(31番地)を登録し、りと が隣の自宅(30番地)を登録したのだろう。ほぼ職住一致だが、店とは別にしっかりと生活の場を守っていたことがわかる。
では高砂町1丁目31番地の「鶯遷閣」はどこにあったのであろうか?
1933年の「台南火災保険図」と1953年の「台南旧地籍図」によると、現在の台南市衛民街117号(中城一品)のコミュニティビルの敷地が、かつての「鶯遷閣」の場所である。
フェイスブックの投稿で、2013年5月に取り壊された謝邸(台南市衛民街119号)が鶯遷閣跡のひとつであると指摘されていたが、2010年に撮影された航空写真を見る限り、龍見家と鶯遷閣の建物はそれ以前に取り壊されており、このふたつ(謝邸と鶯遷閣)は何の関係もないことが明らかである。
本稿のメインテーマは「鶯遷閣」であるが、「鶯遷閣」といえば、日本統治時代に台南で料亭「鶯(うぐいす)」を開いた天野久吉と、日本料理店「吐月」に触れずにはいられない。
「天野久吉」と「吐月」の歴史を明らかにすることで、鶯遷閣への理解が深まるだろう。
ウィキペディアによると、天野久吉は明治33(1900)年に台南に定住し、日本料理店「吐月」に板前として入った。この店は下津竹三郎が開いたもので、台湾日日新報の報道を見ると、「吐月」は日本統治時代に台南で最も早く開かれた日本料理店である。そこにその料理の腕前を買われて料理長として勤めたのが天野久吉である。
また、「吐月」のビジネスモデルは「鶯遷閣」と同様に、料理を楽しむだけでなく、芸者衆がもてなすというものだという。
前述したように、明治37(1904)年、「吐月」は「橘」の店主であった龍見亀蔵に買収され、両店は合併して「鶯遷閣」となり、「吐月」の料理長であった天野久吉は龍見亀蔵に評価され、そのまま料理長(板前)を務めた。
明治43(1910)年に龍見亀蔵が死去すると、翌明治44(1911)年天野久吉は鶯遷閣を去る。
そして天野は大正元(1912)年、台南測候所の隣に「鶯」を開店。 龍見亀蔵の恩義を偲ぶため、店の名に「鶯遷閣」の鶯をとって「鶯」と名づけた。天野久吉が義理人情に厚い人物であったことがうかがえるが、この店名の由来は、あまり知られていない。
天野久吉は明治33(1900)年から44(1911)年にかけて、「吐月」と「鶯遷閣」に勤務し、勤務地は常に台南市丁262番地(高砂町1丁目31番地)であり、この間も常に料理の腕を磨き続け、自らが開いた「鶯」が台南でも有数の名店となったのは偶然ではない。
最後に、「鶯遷閣」のことを知っている人は少ないが、著者のこの研究を通して、日本統治時代のこの名店を多くの人に知ってもらい、理解してもらえれば幸いである。