大人に怒られなあかん、って確かにどこかで聞いたことあんねん。でもな、聞いたことあるから、自分が知っているからという理由だけで、その考えは平凡なものとして否定するのってどうなんやろうな?それは、あくまでも否定されるのが嫌ということではなくて、自分がその物差しでいきていっていいのかどうかというという話やねんけどな。
(沒想到第一句截出來的是這個。)
這句讓我思考了很久,關於衡量事物的尺度這件事。我用各式各樣的尺度去衡量事物,用不知道從哪聽來又是怎麼建立起來的標準,來衡量包括我自己在內的事物。但是這個「物差し」究竟適不適合我,我用這樣的判斷去衡量究竟好還是不好,倒是很少去思考到。像是內建程式,每個人的尺度都有所不同,所以自然衡量出來的輕重緩急也大異其趣。去檢視心裡面那把尺,思考是不是該依此生活下去,或許也變得可以接受別人在我的尺度之外的生活。很喜歡這句話提出來的概念。
一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん?共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるんやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。ほかのもの一切見えないようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな。
只用一個標準去評價容易讓人迷失這點,呼應了前面檢討「尺度」的這件事。後面神谷要自己(創作者)不要迷失在共感的強烈歡愉之中,會看不見其他的東西。讓我想到鹿谷的搞笑橋段,沒什麼高明的笑點,但是共感很強烈的表演。以電視效果和結局為衡量基礎,輸給鹿谷的兩個人,可以堂堂正正地對得起這個「引以為戒」吧。