第13帖
此れまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。
直到現在的體系、信仰都是方便的法門。
今度は正味(せうまつ)の信仰であるぞ。神に真っ直ぐに向ふのざぞ。
這次就是真正的信仰,直直向著神。
日向と申してあろがな。
曰:「太陽照的到的地方」
真上に真すぐに神を戴いて呉れよ。
從正上方直接獲得神吧。
斜めに神戴いても光は戴けるのであるが、横からでもお光は戴けるのであるが、道は真すぐに、神は真上に戴くのが神国のまことの御道であるぞ。
就算是斜的接受神,也能接收到光,就算是橫的也能接收到神聖的光。
道是直直地,神是從正上方獲得的,這就是神國的真正的道。
方便の世は済みたと申してあろがな。
曰:「方便的世道已經結束了。」
理屈は悪ざと申して聞かしてあろが。
理論(帶有強辯)是惡,如此示之吧。
今度は何うしても失敗(しくじる)こと出来んのざぞ。
這次不管做什麼,都不能失敗。
神の経綸(しぐみ)には狂ひ無いなれど、臣民 愈々苦しまなならんのざぞ。
神的道沒有瘋,但臣民越發痛苦。
泥海に臣民のたうち廻らなならんのざぞ。神も泥海にのたうつのざぞ。
於泥海(某種渾沌的意象,類似於人間世),臣民不得不輪迴在苦痛之中。
神也在泥海中浮沉。
甲斐ある御苦労なら幾らでも苦労甲斐あるなれど、泥海のたうちは臣民には堪(こら)えられんから、早う掃除して神の申す事真すぐに肚に入れて呉れよ。
有回報的苦勞,不論多少都有苦痛的價值感,泥海中的苦痛,臣民是無法承受的,趕快清掃,內化神示吧。
斜めや横から戴くと光だけ影がさすのざぞ。影させば闇となるのざぞ。
斜的、橫的接收的話,只有光可以照亮影子,影子被照亮的話,就會變暗。
大きいものには大きい影がさすと臣民申して、止むを得ぬ事の様に思ふてゐるが、それはまことの神の道知らぬからぞ。
大的事物,就有大的影子被照亮,臣民如是說,說是沒辦法的事,但這是不知道真正的神道的緣故。
影さしてはならんのざぞ。
不能照亮影子。
影はあるが、それは影でない様な影であるぞ。
雖然有影子,但那不是影子的影子。(必要之惡的概念)
悪でない悪あると知らせてあろが。
不是惡的惡,如是示之了吧。
真上に真すぐに神に向へば影はあれど、影無いのざぞ。
正上方直接向著神的話,雖然有影子,但是沒有影子。
闇ではないのざぞ。
不是黑暗。
此の道理 会得るであろがな、神の真道(まみち)は影無いのざぞ。
知道這個道理了吧,神的真實的道沒有影子。
幾ら大きな樹でも真上に真すぐに光戴けば影無いのざぞ。
不論多大的樹,只要正上方直接接收光的話,那就沒有影子。
失敗(しくじり)無いのざぞ。それで洗濯せよ掃除せよと申してゐるのぞ。
沒有失敗。然後說清洗、清掃。
神の真道(まみち)会得(わか)りたか。
知道神的真實的道了嗎?
天にあるもの地にも必ずあるのざぞ。
天有的事物,地上也必定有。
天地合せ鏡と聞かしてあろがな。
天地照合的鏡子,如此使人聽聞吧。
天に太陽様ある様に地にも太陽様(おひさま)あるのざぞ。
如同天上有太陽,地上也有太陽。
天にお月様ある様に地にもお月様あるのざぞ。
如同天上有月亮,地上也有月亮。
天にお星様ある様に地にもお星様あるのざぞ。
如同天上有星星,地上也有星星。
天から息吹けば地からも息吹くのざぞ。
從天上有吹息,從地上也有吹息。
天に悪神あれば地にも悪神あるのざぞ。
天上有惡神,地上也有惡神。
足元気つけと申してあろがな。
曰:「注意腳邊」
今の臣民 上許り見て頭ばかりに登ってゐるから分らなくなるのざぞ。
現今的臣民,只看上方,所以只能用頭腦感受,才無法了解。
地に足つけよと申してあろが。
曰:「腳踏實地」
地 拝(おろが)めと、地にまつろへと申してあろが。地の神様 忘れてゐるぞ。
曰:「敬拜地,服從地」
人們忘記地神。
下と申しても位の低い神様のことでないぞ。地の神様ぞ。
雖說在下面,但不是位階低的神。地的神喔。
地にも天照皇太神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ。
地上也有天照皇太神、天照大神、月読大神、須佐鳴之大神。
知らしてあること、神示克く読んで下されよ。
讓你們知道的事,好好研讀神示吧。
国土の事、国土のまことの神を無いものにしてゐるから世が治まらんのざぞ。
正是因為國土的事、國土的真正的神,被刻意的塑造成沒有的,所以世界才沒有治理好。
神々祀れと申してあろがな。改心第一と申してあろがな。
曰:「祭祀眾神、改過自心是最重要的。」
七人に伝へと申してあろがな。吾れ善しはちょんぞ。
曰:「告訴七個人吧」。自己好就好的這種想法不可取。
附記: 直直的獲取,字面上或許有些呆版,不過仔細了解一下內容,這其實跟莊子有異曲同工之妙,緣督以為經的部分。太極拳中有頂頭懸,身體中心線與天地垂直。(這些皆是從台大開放式課程中現學現賣的,詳情請參看蔡教授的正是時候讀莊子一書)