本文為酒吞童子現存最古級的源典——香取本『大江山絵詞』的原文與翻譯。繪卷原圖與詞書源自2024年逸翁美術館官方網站上公開的「デジ絵巻」網頁。譯文為筆者自力翻譯,個人水平有限,如有錯漏之處,歡迎評論指正。
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原文:重要文化財『大江山絵詞』, 南北朝時代, 14世紀, 逸翁美術館蔵 (圖片版權歸屬逸翁美術館)
譯文:兔子Mona
圖1、朝廷內外,公卿出入場所
*第一段詞書佚失,以圖所示失卻內容約為都內貴族女子失蹤,安倍晴明卜曰大江山有鬼賊作亂。
上巻 第二段詞
万機の政務をとり、武をもては、諸國の乱逆を、うちしつめんかためなり、速に、致頼、々信、維衡、保昌等を召れて、此旨を、仰含らるへしと、定申けれは、即四人の武士を召て、此由を仰す、各申されけるは、誠に、弓箭の道には、偏ニ朝敵を、平けんかため也、夫仰を辞申におよはす、五材四義に、忠をつくし、左車右馬のはかりことを、めくらすへしといへとも、是は、すかたをみさる天魔、声をきかさる鬼神也、合戦をとくる事、人力、およひかたき由をそ申ける、爰ニ、閑院の右大将、実見の卿、其時、中納言にて、おはしけるか、申されけるは、かゝる変化の者も、王土に跡をとゝめなから、争か天気に、したかはさるへき、摂津守頼光、丹後守保昌等に、仰せられて、めさるへき由を申されけれは、諸卿一同して、両将をめされぬ、我朝の天下の大事、これに過へからす、各、武勇の志をはけまして、速に、凶害の輩を、しつむへしと、仰含られしかは、各畏て罷出らる、煙霞は、東西に、心なけれとも、風にあふ時は、忽に、飛行す、是則、順の徳なり、人臣は、遠近に、およひなけれとも、命をふくむ時は、馳走す、是則、忠のいたるなるかなや、両輩、各宿所へ退出しで、綸言そむきかたかりし間、思〻に出立けり、別を惜むし
上巻 第二段詞譯文
「万機之政,施策以安,欲以武力平定諸國亂逆,速召平致頼、源頼信、平維衡、藤原保昌等,領此旨。」四武士應命前來,告以情由,然皆搖首曰:
「弓箭之道,誠以為平朝敵,辭命不可。然此敵乃天魔鬼神,形不可見,聲不可聞,故乞免此任。五材四義盡用,無愧忠節,左車右馬策謀雖運,亦難勝之。交戰之事,非人力所能。」
爰時,閑院右大將藤原實見卿,時乃中納言也,言曰:「如斯變化之者,既已跋跡王土,皆應順天之意,為何由逆天命?」
遂命攝津守頼光、丹後守保昌等速行討伐,諸卿皆同聲贊成,稱讚兩將:
「我朝之大事,莫過於此,故諸將皆應勉武勇之志,速平兇邪。」
煙霞東西無實,風起則散,是則,順德之表也。
人臣無論遠近,命在必行,是則,忠誠之極也。
兩將不敢背勅,各歸本宅,思行出征,惜別之情溢於言表。
*五才,指金木水火土五行構成萬物的素材,四義,指佛教思想中的實體、化用、教門、實義。
*藤原實見,被現代比定為藤原公季(957-1029)。陽明文庫本記為閑院左大將實躬卿,正史上的藤原公季於長徳二年(996)9月8日任左近衛大將,生涯未有右大將任職記錄。
直白的說,本段為諸將表示:要我們赴死都可以,但用與人打仗的謀略盲目去打看不見的鬼神,那實在辦不到啊。
遭藤原實見駁斥:管他是什麼怪物,此乃王土,當遵王法!言下之意——給我去打。
然後眾人甩鍋給源頼光和藤原保昌,自己縮了。
圖2、兩將於階下,恭敬地受宣旨
第二圖因陽明文庫本與香取本文本接近,陽明文庫本殘餘的詞書部分為
□□□□地の錦の直垂に糸威□□□□(龍カ)頭の甲をもたせたり。大中黒の征矢や、廿四さしたるを頭高におひ、重藤の弓を杖につき、金作の太刀の三尺五寸なるをさけはきたり。保昌は、赤地錦鎧直垂に、紫裾濃の鎧に鍬形うちたる甲もたせて、高薄尾部の征矢おひて、節巻の弓、杖につき、白蛭巻の太刀に、虎皮の尻鞘入てはき、庭上に搖き出でたる気色、誠に邊りを払ひてぞみえける。
譯文
兩人回宿所後惜別妻兒,整裝待發,頼光身披赤地錦直垂,外着赤絲威鎧,頭戴龍形前立兜,廿四支大中黑色之征矢高插於箙上,手持重藤弓作杖,腰懸金作太刀,長三尺五寸。保昌身披赤地錦鎧直垂,着紫裾濃鎧,頭戴鍬形前立兜,腰懸高薄尾部之征矢,手持節巻之弓作杖,腰佩白蛭巻太刀,裹虎皮尻鞘。二人立於庭上,威風凜然,氣勢驚人,令周遭景物黯然失色。
*重藤弓,通指弓身長兩米餘高的藤巻大弓。
*金作太刀,金覆輪太刀拵的古稱,白鮫皮外包覆輪金。
*白蛭巻太刀,銀銅蛭巻太刀拵的古稱。傳來香取本繪卷的千葉氏同家傳來有一把號「寶生」的太刀,指此刀,保昌與「寶生」同音,但千葉妙見社『靈寶之目録』中將其記為「源頼光家來の寶生の太刀」,讓人摸不著頭腦,藤原保昌歷史上不是源頼光的家丁。該刀現存與否不明。
*征矢,實戰用的箭頭。相對而言,鏑矢則是儀式時使用的箭頭。
*箙,原文おひ指得是笈,但通常插24本箭矢的箭筒叫箙,笈是背行李用的竹編箱簍,硬插進去易對箭頭造成損傷。疑為箙或胡籙寫錯字。
*虎皮尻鞘,虎皮套在刀鞘上的防雨用具,古代日本無虎,虎皮靠從大陸進口。
(以下三圖詞書佚失、是何神社不明確,為根據後文假定的神社名)
圖3、八幡宮祈願圖
圖4、日吉社祈願圖
圖5、海边神社,住古社祈願圖
圖3-5詞書部分佚失內容推定為源頼光前往石清水八幡宮和日吉大社祈願戰勝,藤原保昌前往熊野神社和住吉大社祈願戰勝。源頼光決定平定敵人前不回京都。
上巻 第四段詞
(欠)けしき也。各是をみて、無疑、変化の物と、思はれけれは、太刀をぬき、弓を引て、むかふところに、白翁、すゝみいてゝ、きものをぬきかけて、はたかになりて、手を合ていひけるは、おそれあやしみ給ふ事なかれ、各を待たてまつるなり、其故は、おきなは、子共六七人もちたりしを、一人ならす、鬼王にとり失はれて、此歎いかはかりとか思給ふ、彼山臥は、同行あまたとられ、此若僧は、弟子、師匠を失なひて、歎給へは、両将宣旨を給はりて、鬼城へ、尋向給由を、伝承はる間、悦をなして、我等も、御共つかまつりて、心のゆくかたと、彼所へ、相向はんかためなりと、かたり申けるに、頼光、のたまひけるは、かくのたまへとも、全、心をゆるしたてまつるにはあらす、なれとも、我等は、宣旨を頸にかけて侍れは、我等か身には、何条事かあるへきとて、太刀をおさめ、弓をゆるしぬ、各、用意の飯酒、ともに至極おこなひて、鬼城を、求出へき様を、はからふところに、白翁、申されけるは、其すかた共にては、尋給はん事、かなふへからす、縦、あにおとゝなりとも、いかてか、たやすく、あふ事をうへきすかたをやつして、様をかへて、尋見給へとて、唐櫃の中より、柿衣、柿袈裟、頭巾なんと、取いたして、とり〱に、負といふ物、九丁、おなしく、櫃中より、とりいたして、彼負に、甲冑(下欠)
*前半詞書殘缺,失卻內容約為眾人行至某座山中祠堂前見到四個怪人——白髮老翁、山伏、老僧和若僧,他們備好吃食,似乎在等人。賴光一行警惕地想:這些人是不是妖怪變化之物?賴光準備拉弓,保昌也手握刀柄,目光直視前方。
上巻 第四段詞譯文
……如是情状也。眾人皆無疑覺此乃異變之物,遂拔太刀,張弓引箭,準備迎擊。
白翁趨步至前,脫下上衣以示禮節,合掌曰:「莫要如此,我等久候於此,非妖邪也。」其故為、此翁曾有六七子女,今皆被鬼王奪去,一人不剩,此哀實難以言喻。彼山伏,失同行者眾多,而此若僧,失弟子及師父,歎歟:「聞二將受宣命將往鬼城,我等喜極,欲隨二將,共報此仇,今將向彼地。」
頼光曰:「原來如此,然我等非全信汝等,但我等已受宣旨,助力於討伐無礙。」遂收刀弓,緩弦。
眾人準備食酒,極盡所能,共議討伐之策,圖尋覓鬼城之法。
白翁言:「以此裝束,難以尋至鬼城,即使是兄弟亦難遇。宜改形易服,方可尋覓。」
乃自唐櫃中取出柿衣、柿袈裟、頭巾等物,又取九丁背負用笈,將酒肴置於櫃中,甲胄(以下詞書殘欠)
*山伏,山中徒步修行的行腳僧。
圖6、頼光等人遇四神化身,變裝入山。此圖本處別卷中,列為第19圖,圖序由逸翁美術館校訂。
上巻 第五段詞
(欠)たり、頭には、黒髪もなく、白髪るか、かほはせ、たとへむ方なし、色〻、さま〱に、血のつきたる物を、あらひて、木の枝にかけ、岩のかとなんとに、ほしかけたり、人〱是を見て、無疑、変化の物よと思て、忽に命を、失てんとする所に、女、手を合て、我更ニ、鬼神変化の物にあらす、本はよな、生田の里の賎女にて侍しか、おもはぬ外に、鬼王にとられて、此所に来て侍し時、骨こはく、筋たかしとて、捨られしか、この器量の者とて、かゝるきものを、あらはせらるゝなり、古里もゆかしく、したしき者も恋しけれとも、春行、秋たけて、既に、二百余廻の、年月をかさねたり、さても、此人〱は、いかにして、是へは、おはしぬるにか、速に、疾帰給へ、此所は遙ニ、人間の里を、はなれたり、齢、しかも盛なる人〱也、いとかなしくこそ、覚ゆれと、申けれは、頼光、問給けるは、此山は、大江山の奥也、人間をはなれたるとは、なに事そと、の給へは、老女、答けるは、是へおはしつる道には、岩穴の、ありつるそかし、其穴より此方は、鬼かくしの里と、申所なりとそ申ける、保昌、賎女に、また問れけるは、さて此所のありさま、くはしく、かたり申せ、王の宣旨を蒙て、尋来れる也と、の給へは、さては、ありのまゝに申すへしとて、鬼王の城は、此上に侍る也、八足の門を立てゝ、酒天童子と、額をは、書たる由をそ聞侍し、彼亭主の鬼王、かりに、童子の姿に変して、酒を、愛する也、九重の内より、公卿、殿上人の、姫君、北方、貴賎上下、とりあつめて、料理包丁して、くひ物とす、此比都に、晴明と申なる、泰山府君を祭給ふによりて、式神、護法、隙なく、國土を廻りて、守護し給ふ故ニに、都より、人をも取得すして、帰る時は、すゝうに、腹をすゑかねて、胸をたゝき、歯をくひしはりて、眼をいからかして侍る也、つれ〱なるまゝに、笛を吹て、遊給ふ、不思議なる事の侍るは、天台座主、慈覚(恵)大師の御弟子、御堂の入道殿の御子の、おさなき、児をとりて、鉄石の籠にこめたてまつる所に、彼児、無他念、法花経を、奉読給ふ御声、暁さまには、是まて聞へ侍そや、か様に、いきなから、魔道の報を、うげて侍れは、其罪業を悲しく思に、此御経の御声を、承はるにこそ、罪障も消滅するらんと忝侍る、又、慈覚(恵)大師の、手つから、自ら、行給へはや、彼一乗守護のために、諸天、善神、雨のことくに集り、雲のことくに来て、夙夜、不断に、修行し給へるに、鬼王も、もちあつかひて侍る由をそ語ける
*前半詞書殘缺,根據陽明文庫本推測佚失的內容約為一行人換裝成山伏僧侶,此時隊伍一共為源賴光、白翁、山伏、老僧、若僧、綱(渡邊綱)、公時(下毛野公時,後世作坂田金時)、忠道(平忠道=平貞通,後世作碓井貞光)、季武(平季武=卜部季武)、保昌(藤原保昌)、大宰小監(太宰少監清原致信,藤原保昌的郎党,清少納言之弟),共11人。頼光和老翁用檜杖引導前行,其他人則背負著裝有甲冑和酒飯的笈。馬匹交由隨從帶回故鄉。一行人深入山中,穿過途中的一個岩洞,最終來到一條溪流旁。遇到一位正在洗血衣的老婦,她赤裸上身,僅用樹葉裹腰,左手抓住樹枝,右手用長柄杓從溪中取水,用腳踩洗衣物。晾在樹上的衣物仍留有血跡。
上巻 第五段詞譯文
其貌凋敝,頭無黑髮,皆為白髮,面目猥陋,不可比擬。
衣物血跡斑斑,洗浄掛於木枝,或置於巖角晾曬。
眾人見之,謂無疑為化生之物,恐死地將至。
女乃合掌曰:「我非鬼神變化之物,本乃生田之里賤女也,忽為鬼王所掠至此,因骨強筋高棄置一隅,遂成洗衣役。懷思故里,戀想親眷,春行秋闌,已二百餘廻之季月矣。然諸君何故至此?速速歸去。此處遼隔人間,君等正值盛年,悲哉!」
頼光曰:「此山乃大江山之奧,何謂遼隔人間?」
老女答曰:「諸君來此之道,有一巖穴。穴之外,謂之『鬼隠之里』。」
保昌問賤女曰:「請詳述此地情形。我等奉王命而來。」
女曰:「既然如此,當如實相告。鬼王之城於山頂,上有八足之門,額書『酒天童子』。其主鬼王常化童子之形,嗜酒成性。九重之內,公卿殿上人之姬君、北之方(=妻子)、貴賤上下,皆被擄來,啖為食材。近因都城之晴明祭泰山府君,式神護法,廻國守土,故鬼王不能擄人而歸,每憤怒難抑,叩胸囓齒,目露兇光。無聊之際,吹笛遊樂。又有一奇事,天台座主慈惠大師之弟子御堂入道殿之子幼童,被囚於鐵石之籠,念誦法華經聲,至曉尚聞。我因受魔道報應,悲嘆罪業深重,聞此經聲,罪障或能消滅。更有慈惠大師親行修持,一乗守護,諸天善神,雲集雨降,夙夜不斷,鬼王亦持其無輒之。」
*包括『御堂關白記』在內的正史並沒有藤原道長之子被劫持的記述,此處屬文學虛構。現代「傳承文學研究會」的專家美濃部重克、美濃部智子將其比定為藤原道長的三子藤原顯信(994-1027)。但藤原顯信出家已是1012年1月17歲時的事,難稱之為幼童。陽明文庫本及高蔵神社、清薗寺等丹波國當地諸寺社傳源賴光進山時間為正暦元年(990)3月21日,此一時間點藤原顯信尚未出生。
*天台座主慈惠大師被現代比定為良源(912-985),原詞書記為慈覺大師,即圓仁(794-864),屬早已作古之人,故覺字被後世人劃去在旁改字為恵。良源為比叡山延曆寺中興之祖,是藤原道長祖父輩的人,在藤原顯信出生前就已圓寂,能為其親行修持一乗守護是邏輯不通的事情,除非故事時間點設定為985年以前。
圖7、遇河邊洗衣婦,打聽鬼城情況。
上巻 第六段詞
賎女の詞に随て、此所を、すこし、あゆみのほりて、見れは、誠に八足の大門あり、門の柱、扉は、うつくしく、殊勝にして、あたりも、かゝやく程也、四方の山は、瑠璃のことし、地は、水精のすなを、まきたるに似たり、各、これを見るに、石室、霜ふかくして、迦葉の洞に、来れるかと疑ひ、蘿径、雪あさくして、懺悔の庭に、のそめるかことし、頼光、綱をめして、門の内へ、入て、案内きけと、の給へは、綱、忽に、樊会か思をなして、たゝ一人、門の内へ入て、寝殿とおほしき所へ、さしまはりて、物申さんと、たからかに申けれは、内より、けたかく、ゆゝしぎ声にて、なに物そと答て、出たる人を見れは、一丈計なる、大の童の、練ぬきの小袖に大口ふみくるみて、笛もちたる手にて、簾かきあけて、誰人そと問、まなこゐ、ことから、けたかく、ゆゝしき気色にてそ有ける、綱、すこしもさはかす、諸國修行の者、山臥共、十余人侍るか、道にふみまよひて、是まて、まいるなり、御やと給らんと申けれは、童子、さらは、惣門のきはなる廊へ、入たてまつれとて、案内者の女房そへたり、此女房、綱か前にたち、ゆく〱、袖をかほにあてゝ、さめ〱と泣けれは、綱、事の故を問に、女房、答けるは、御すかたを、見たてまつるに、修行者にこそ、おはしますめれ、是へおはしなん後、いきて古郷へ帰る事、あるへからす、いとをしく、かなしくこそ、思ひたてまつれ、我は是、土御門の内府、宗成卿の、第三のむすめなり、過秋の比、月を詠し程に、あえなくとられて、心うきめをは見る也、すこしも、心にたかふものをは、くた物となつけて、座をかへす、くらひ侍れは、目の前に見るも、心うし、今日や身のうゑに、ならむすらんと受に、雪山の鳥の、心地して、悲しく、心うく侍ると申、かゝるを聞に、ゆゝしき事を聞物かなと、おもへとも、さらぬ躰に、もてなして、門のきはなる廊へ、人〱をも入たてまつりぬ
上巻 第六段詞譯文
隨賤女之言,稍登彼地觀之,果有八足之大門。門柱扉扇,精美殊勝,四週光輝燦爛。四方之山若瑠璃。地似撒水精之砂。眾人見之,如石室霜深,疑臨迦葉之洞;若蘿徑雪淺,疑臨懺悔之庭。
頼光召綱曰:「入門內詢問引路之事。」綱乃憶樊噲(「人為刀俎,我為魚肉」之意),獨入門內,至似寝殿之所,高聲呼曰:「有擾。」內有聲答,見一丈許大之童,上着練緯之小袖,下着大口袴,持笛掀簾,問曰:「何人也?」眼神體貌,氣象高貴莊重。
綱不驚,答曰:「諸國修行者,山臥十餘人,迷路至此,乞宿。」
童子曰:「若然,入正門際廊。」遣女房引路。女房行至綱前,以袖掩面而泣。綱問其故,女房答曰:「吾見君乃修行者也。至此後,恐無生還之望。吾憐君命苦,心痛不已。吾乃土御門內府宗成卿三女也。昔秋宵吟月時,遭山鬼所擒,不能抗,至此歷苦難矣。此地之主,若遇逆意者,名之曰果物,當場食之。此見令吾心苦莫甚。吾輩命薄,每恐今日斷矣,如雪山飛鳥,心常憂愁,終日難安。」
聞斯言,綱心中悲憤,忖何其殘忍也。然為成討伐之功,忍不能解其憂,內心自勉,外強作不然之態,導眾人入廊。
*迦葉之洞,釋迦牟尼的首座弟子摩訶迦葉入寂,等待彌勒佛出世的所在。
*懺悔之庭,行佛教六根忏悔法之地。
*土御門內府宗成卿三女現代比定為藤原道長之父藤原兼家的三女藤原綏子(974-1004),綏子16歳時永祚元年(989)12月9日進入東宮為侍,長徳元年(995)之後三年內因與村上天皇之皇孫源頼定私通被揭發而退職,受異母姐東三條院詮子(一條天皇母)及藤原道長同情保住官職,長保三年(1001)升正二位,同樣沒有過被拐的記錄。
圖8、抵童子之館,童子掀起簾看向探路的渡邊綱。
上巻 第七段詞
其後、とはかり有て、容顔美麗ノ女房達、円座十枚、もてきて、此人〱に、しかせけり、銀の瓶子の、大やかなるに酒入、金の鉢なんとに、なにの肉やらん、いとたかく、もりあけて、もちつゝ来り、彼もろこしの、張文成といひし人か、仙窟にいたりて、神女にあひなれけんも、かくや有けんとそおほえける、頼光、保昌、同詞に、おなしくは、亭主の、御出あらんこそ、面白く侍るへけれ、我等はかりは、珍からぬ、同行共にてあると、いはれけれは、暫ありて、亭主の童子、いてきたり、たけ一丈計なるか、眼ゐ、ことから、誠にかしこく、智ゑふかけにて、色〱の小袖に、白き袴に、香の水干をそきたりける、うつくしき女房達、四五人に、或は円座、或は脇息もたせて、あたりも、かゝやく計に、ゆゝしくそ見えし、童子、頼光に、問申されけるは、御修行者、何方より、何こたへなる所へとて、御出怖けるそと、問ひけれは、答られけるは、諸國一見のために、まかり出たるか、すゝうに、山に、ふみ迷て、是まて来る由をそ答られける、童子又、我身のありさまを、心にかけて語けり、我は是、酒をふかく、愛するもの也、されは、眷属等には、酒天童子と、異名に、よひつけられ侍也、古はよな、平野山を、重代の私領として、罷過しを、伝教大師といひし、不思議房か、此山を点し取て、峯には、根本中堂を立、ふもとには、七社の霊神を、崇たてまつらんと、せられしを、年来の住所なれは、且は、名残も惜く覚え、且は、栖かもなかりし事の、口惜さに、楠木に変して、度〻、障碍をなし、妨け侍りしかは、大師房、此木を切、地を平けて、あけなはと待し程に、其夜の中に、又先のよりも大なる楠木に変して侍りしを、伝教房、不思議かなと思ひて、結界封し給し上、阿耨多羅、三貌三菩提の、佛達、我立杣に、冥加あらせ給へ、と、申されしかは、心はたけくおもへとも、力不及、あらはれ出て、さらは居所をあたへ給へと、愁申せしによて、近江國、かゝ山、大師房か領なりしを得たりしかは、さらはとて、彼山に、すみかえてありし程に、桓武天皇、又勅使を立て、宣旨をよまれしかは、王土にありなから、勅命、さすかに、背かたかりしうゑ、天使来て追出せしかは、無力して、又此山を迷出て、立やとるへき栖も、なかりし事の、口惜さに、風に託し、雲に乗て、暫は、うかれ侍し程に、時〻其怨念の、催時は、悪心出来て、大風と成り、旱魃となりて、國土にあたをなして、心をなくさみ侍りき、然に、仁明の御宇かとよ、嘉祥二年の比より、此所に住そめて侍るか、かゝる賢王に、あひたてまつりて侍る時、我等か威勢も、心にまかせ侍る也、其故は、王威ゆるけれは、民の力衰へ、佛神の加護、うすけれは、國土衰弊する事にて、愚王にあふ時は、童か心もいふ甲斐なくなり、賢王、賢人の代に、あふ時は、我等か通力も侍るなり、昔物語は、しつかに申て、きかせまいらせん、先、一献とて、酒をすゝむ、頼光、の給けるは、童子にて、おはしますうゑは、児にてこそ、おはしませ、御さきには、いかてか、さかつきはとるへき、先〻と、の給へは、童子、うちわらひて、この御詞にこそ、おめ侍れとて、さかつきを取て、三盃して、御詞に付てとて、頼光にさす、うけて、のまんとするに、なまくさく、むつけき事、かきりなし、さりけれとも、おこの気色もなく、しつ〱とのみて、保昌にさゝれぬ、保昌、のむよしして、すてられぬ、さる所に、老翁、山臥等、御酒は給はり侍ぬ、我等か中に山臥の死筒(酒カ)とて、用意したる物侍り、此御前にて、取出さては、いつの時をか、期し侍るへきとて、負の中より、筒取出て、す瓦めけり、飲は、取出〱、我おとらしと、しゐたりけり
上巻 第七段詞譯
其後不久,見容顏美麗之女房數人,持圓座十餘枚至,為諸人敷之。又以大銀瓶盛酒,金鉢中堆不知何肉,甚高而來。此情此景,猶如唐之張文成至仙窟,與神女相會結契。
頼光與保昌共陳曰:「若能請主人家相見,則更為愉快。我等皆凡山伏,毋須有所顧忌。」此言傳入內裏不久,主人童子出現。其身高逾一丈,目光體貌令人畏怖,且顯智慧之色。其著色彩斑斕之小袖,腰纏白袴,外披香色水干,由四五美麗女房侍立於側,或持圓座,或持脇息,壯麗輝煌,使人目眩。
童子問頼光曰:「修行者,自何方而來,欲至何處?」
頼光答曰:「本為諸國廻遊,誤入山間,迷失至此地。」
童子闻之,自述其事曰:「吾乃嗜酒之人,故眷属称吾为酒天童子。昔,吾世代以平野山為私領。及至傳教大師、一奇異僧人,選此山為立寺佳地,於峰建根本中堂,於麓祭七社靈神,迫吾遷離。此乃吾久居之所,故戀戀不捨,且無新栖之苦憤,乃化作楠木,屢次阻撓妨害大師行事。大師見之,欲伐此木,平地而建堂。然至夜半,吾又化作更大之楠。傳教大師覺其異,遂以結界封之,並祈曰:『阿耨多羅三藐三菩提之諸佛,願加冥護於吾立杣之地。』
吾心雖頑,然力不及,乃現形於前,對大師曰:『若欲驅我,請賜一居所。』大師遂賜近江國加賀山之地。吾遷居此山,然桓武天皇復遣勅使,命我再遷。居於王土,不敢違勅命,乃屈服而出,無奈再遷,無所棲止之恨積於吾胸,隨風成雲,浮游於空。
其怨未解時,惡由心生,或起風暴,或致旱魃,禍國土以晴吾鬱。及至仁明天皇在位,嘉祥二年始居此地。自此以後,凡遇賢王之治,吾力漸長。其理在於弱王寬政,民力衰,佛神護佑薄,國土疲弊。遇愚王之治,自民心卑弱,無需吾施爲;遇賢王,則吾之通力顯現,威脅此國。昔話至此且止,先敬一杯。」
童子勸酒於賴光。
頼光接酒,反遞還之,答曰:「汝既是童子,乃孩童矣,吾不知如何先從汝手中受盃。請汝先飲。」
童子笑曰:「汝言誠善。」遂取盃,連飲三杯,且曰:「依汝言,亦奉勸。」乃為頼光斟酒。頼光接盃,欲飲之,覺腥臭難耐,催人作嘔。然雖如此,面無異色,靜飲之,從容而盡。童子復勸保昌。保昌佯飲復吐之。
翁見此情形,遂前言曰:「山伏我等本不當飲酒,今已受矣。我等特備一酒,為『山伏之死筒』者,今不取出,待何時?」遂自笈中取筒勸之。童子飲盡再斟,復飲再斟,不欲示弱,欲勝其力。
*香取本以漢字明記為酒天童子,不為酒吞童子,「吞」為後世諸本假名轉漢字所引起的別字。後世諸本亦有酒顚童子(古法眼本、伊吹山系)、酒典童子、酒伝童子、朱點童子、珠天童子等漢字表記法。稱其為第六天大魔王為曼殊院本才有的記述。
*唐之張文成,指唐代小說『遊仙窟』中投宿神仙窟與仙女交歡的故事。
*脇息,跪坐時用來搭手、撐胳膊的家具。
*近江國平野山,古音同比良山,故此處現代想定為是在敘述一個延曆三年(788)傳教大師最澄在比叡山興建延曆寺時的開闢譚。此處為作者表示酒吞童子為活了超過兩百歲的鬼怪,曾在延曆寺開山時反復作祟阻撓。實則平野山是否延曆寺建成前比叡山曾經的古稱仍缺少文獻可証,正史上延曆寺被BBQ過無數次,早已不存在接近開山期的文獻。
*七社,通指二十二社社格中的上七社。
*近江國加賀山,今滋賀県長浜市已高山。屬天台宗,因行加賀國白山信仰古稱加賀山。
*嘉祥二年(849),為仁明天皇退位的前一年,古傳為刀工伯耆安綱之子大原真守的活躍期。
*死筒之酒,後世酒吞童子物語諸本中神便鬼毒酒的原形。
圖9、酒吞童子設宴款待頼光等。
上巻 第八段詞
其の後はいく程なく、黒雲にわかに立くたりて、四方は闇夜のことし。つくさき風あらくふき、振動・雷電斜めならず。「こはいかなる事のあらんずるぞ」と見るところに、種々無尽の変化の物共、せいも大きにかたちもおそろしけにて、田楽をして通とおりけり。
上巻 第八段詞譯
其後不久,黑雲驟起,四方如闇夜。血雨腥風肆起,地響雷鳴,電光霍霍,異常可怖。頼光等驚疑道:「這究竟是何事?」視線所及,忽見種種無盡妖異的化生之物,形態怪異,隨音而來,列隊行進如田樂之舞。
圖13、群鬼田樂列行。本圖原亦為下巻的圖1,原屬同一套巻物分割兩巻裝裱。
上巻 第九段詞
打つゝきて、又、此の変化のものとも、やう〱の渡物をぞしける。面もとり〱に姿もさま〱也。或ハをかしきありさまなる物もあり、或ハうつくしき気色したる物もあり、おそろしく心もうこきぬへき物もあり。筆にもかきしるしかたく、詞にもいひしらぬさまなれは、各是を見られけるに、頼光させき居つくろいて、面もふらす目をもはなたす、暫くまほりておはしけれは、眼の底より五色の光そ出たりける。変化の物共申しけるは、「あの山臥ハ見らるゝか。眼のひかり、顔のあらたち、つねの人にハかはりて見ゆ。当時、都に都にあまねく人々のおそれおのゝくなる源頼光とかや申人こそ、眼の底は光るなれ。それならては、かゝる人も又ありける物かな。我等が類の、あさむきなふるへき人にハあらす」とて、うしろさまにあはてゝ東西に走散、巌石にたうれふしてそにけのきける。
(以上ニテ上巻終ル)
上巻 第九段詞譯
接著,各種妖異接踵而至,變幻無常。或畸形可笑,或面容姝美,或狀極可怖。其景狀非筆墨所能詳,亦非言語所能盡。眾人見此異象,惶恐不已。
頼光安坐其席,面不改色,目不移視,靜觀其變。從眼底忽放五色光芒,照亮四周。妖異皆驚,謂曰:「彼山伏非等閒之人,其眼光炯炯,面色威嚴,非尋常人也。聞今都中人皆畏之者,乃源頼光是也。其眼光能洞察我等化生之物,果不同凡俗。我等不可欺之,速退避。」
言畢,眾妖驚慌失措,四散而逃,或奔於東西,或倒於巌石,倉皇而退。
*田樂,日本平安時代中期起田間插秧時祈求豐收用的傳統民俗舞蹈。
*五色光,五色為赤青黃白黑。此處為套用佛教思想將源賴光神話化的描寫。東晉《觀無量壽經》記:「爾時世尊即微笑,有五色光從佛口出。」西晉《太子和休經》記:佛大笑,口中五色光出悉照十方。彌勒菩薩起前,長跪叉手白佛言:「佛不妄笑,何因緣五色光出悉照十方耶?」
上巻終
圖14、眾鬼種種變化行列。本圖為下巻圖2.,圖序由逸翁美術館校訂。
下巻 第一段詞
(欠)今ハ日のくるゝを相待ところに、眷属の鬼共、「此人々をはからん」とや思けん、容㒵美麗なる女房達に変して、かさねきぬともをきかさりて、五、六人はかりうちつれて、山臥達のまへにきたれり。なにといひやりたる事ハなくて、かたちつくりをしきりにしけり。陽台の朝の雲に袖をかさね、洛浦の神皇にましわりをむすふかとそおほえし。保昌のたまひけるハ、「山臥修行者の居所に、女房達の来れる事、心へかたし。すミやかに罷出よ」との給へとも、耳にも聞入すして居けるを、頼光、目を暫もはなたれす、にらみてまほられけれは、おもはやくすすろわしけに成て、漸しりそきのきけるか申けるハ、「此人々の中にハ、此山臥そ、ゆへある人と見へ給ふ。眼ゐのむつかしさ、いふせし。いさや」とて、各か本躰をあらはして、かきけつやうに逃走うせにけり。
下巻 第一段詞譯
時值日暮,頼光等待機而動。眷属之鬼眾欲欺其意,變化為容貌美麗之女房,華服襲衣,五六人許,現於山伏前。其裝束美麗,非筆舌所能盡述,如陽台之神女隨朝雲而至,與懐王共度朝歡之景。
保昌言:「吾等皆為山伏,不可與婦人同席,煩請退下。」
然鬼眾不聞,仍欲留居。頼光視之不放,目光如炬。鬼眾見之,羞赧懊惱,始漸退卻。言:「此山伏中,似有殊人,目光難耐,心中難抑。吾等當避去。」遂各顯本體,倏然掻影而遁。
*巫山陽台之神女與楚懷王共修雲雨,典出自中國戰國末期宋玉『高唐賦』,為「除卻巫山不是雲」之巫山一詞的語源。作者引經據典想表示源賴光不貪酒樂,不近美色,光靠眼神嚇跑一眾酒吞童子日常尋歡作樂用的妖魔鬼怪。
圖12、眾鬼眷女房現出原形退散。本圖為下巻圖3.,圖序由逸翁美術館校訂。
下巻 第二段詞
室をかまへて、都鄙の老少を、こめをく、又、忍ひ声にて経を読奉る、声のしけれは、いかなる人そと思ひて、声をしるへに、ゆきて見れは、銅の籠を作て、女房四□人こめおきたる中に、いと清けなる児の、十四五はかりなるか、練貫の小袖に白き大口きて、守より、小経を取出て、涙の露に、点をそへて、よまるゝにそ有ける、此児の左右を見れは、十羅刹女、もろ〱の天菓を置て、外に、種〻にかたちを現して守護す、又、薬師の十二神将は、このかうしの外に、かたちを現して守給ふ、又、不動の炎光のことくに、火もゑあかりたる、猿一疋そ立たりける、是を見て、頼光、これはいかなる事にやと、尋給へは、白翁、答けるは、此児、法花経を読誦し奉る功によりて、十羅刹、此所に来臨して、擁護し給ふ也、又、十二神将は、此児の師匠、七佛薬師を、行し給故に、守護して、眷属の十二葉て、まほり給ふ、又、猿の様なる物はよな、あれこそ、叡山早尾権現よ、かの本地、大聖不動明王なれは、生〻而加護の誓といひ、猿は又、山王の使者、かれこれ、両形をあらはして、まほり給ふ也とそ、の給ける、頼光は、此白翁、もとより、あやしく思はれけり、まことに、権現の、加護にあらすは、天魔の凶悪を、しつめかたし、ひとへに是、年来日来、憑をかけたる霊神の、化現かやと、感喜あひならひけれは、保昌と、ひそかに目を見合て、うなつき給けり、此児と申は、さきの老女か語つる、慈覚(恵)大師の御弟子、御堂の入道殿の、御子息、是也
下巻 第二段詞譯
(本段前部殘欠)室宇幽閉者,不論都鄙老少,皆囚籠中。又聞密声誦經,疑何人也,循聲而去。見銅籠中四五婦人、一清麗童子,年十四五,著練緯小袖,白大口袴,取經誦讀,淚露滲襲。
以此兒之左右顧之,十羅刹女置諸天菓,變現守護。又十二神將現形於外護衛。猶見一猿背負不動炎光,乘雲騰立。
頼光見之,詢曰:「此何事也?」白翁答:「此童誦法華經之功,十羅刹女來臨護佑。又十二神將為其師行信七佛藥師之故,守護其旁。猿者,比叡山早尾權現之由,其本地為大聖不動明王,發誓護佑,猿乃山王使者,兩尊合一形以護之也。」
頼光聞之深感不思議,乃悟此白翁或為常日所祈願之神明,曰:「誠然,若無權現加護,難平兇惡天魔。此乃靈神化現。」與保昌相視頷首,心懷喜悅。
此兒乃川中老女所語,慈惠大師弟子,御堂入道之子是也。
*十羅刹女,法華經護持者,是應道長子自身誦經而來。十二神將,藥師如來的眷屬,應慈恵大師作法而來。早尾権現,日吉山王権現,其本地為不動明王,形象為猿猴,背負不動明王的火焰光輪,猿是日吉大社的神使,也是比叡山視為神聖的動物。
圖10、牢內稚兒誦經,諸神降臨守護。本圖為上巻圖10、下巻圖4.,圖序由逸翁美術館校訂。
下巻 第三段詞
こゝを立のきて、南の方を見れは、軒ちかき、花橘のにほひは、風なつかしく、むかしの袖の香やらんとおほえ、おほあらきの森の下草、いふせきまてに、しけりあへる、たへ〱に、とこなつかしき、ひめゆりの、はなのかほはせも、めつらしく見へけるに、大なる桶とも、あまた、すゑならへて、人を鮨にしおきたり、そのにほひ、つくさく、なまくさくして、見るも、かわゆき事、限なし、かたわらを見れは、ふるき死骸は、苔むし、新き死骸は血つきて、塚のことく、山のことし、西の方をみれは、群梢、雨にそんて、梧楸の色、紅なり、百菓、露結て、蘭菊の花、芳はし、われ松虫とは、なけれとも、心ひかるゝ、こゑ〱也、こゝに又、唐人あまた、こめおきたり、これをみるに、我朝にもかきらす、天竺、震旦の人まても、とりおきけるよと、みれは不便とも、いふはかりなし、北の方には、雪にうつむ岸、松の嵐を待色、霜にあける庭の菊、秋をのこせる、にほひ、いつれも、目、とゝりにけり、只今は、鬼とも、おほくはなけれとも、十余人そ、ありける、そのほかは、さま〱に、形を変して、躰を化たる物とも、おほくそありける、目もあやに覚て、本の廊に帰て、このありさまを、郎等共にかたられけり
下巻 第三段詞譯
頼光等既離銅籠,遂南行而探。軒邊花橘之香隨風撲鼻,恍若昔日衣袖之香。大木之下草木繁茂,鬱鬱蔥蔥。間或見常懷之姬百合,零零散散,綴滿四野,別致珍稀。
然近觀側畔,大桶數並,人置其中,製成鮨饌。其氣血腥薰天,不忍卒睹。四顧周遭,見腐屍苔藓蒙覆,新屍鮮血淋漓,積如塚山,令人駭然。
西方望之,群梢雨濡,梧楸色紅,百果結露,蘭菊芳香。雖無松蟲鳴唱,仍心被聲引也。
又見籠中閉天竺、震旦異人虜囚,不勝惻然,感虜囚非止我國人矣。憐憫之情無以言表。
眺向北方。雪覆岸,松待嵐,殘菊滿庭歎霜降,留秋之餘香。盡皆縈繞於目。
只今時有鬼怪十數人及其他異形化物環繞,景象慘烈,然受制於監視,無從言語。頼光與保昌復歸廊道,將所見告於郎黨。
*昔日衣袖之香,指『古今和歌集』巻三「夏歌」所載的和歌「五月待つ花橘の香をかけは昔の人の袖のかそする」待至五月,花橘芬芳,恍若昔人衣袖之香。
*松虫,指『古今和歌集』巻四「秋歌 上」所載的和歌「秋の野に人松虫のこゑすなり 我かとゆきていざとぶらはむ」秋野聞松虫鳴,或待人乎?若為我耳,且往尋之。
*鮨饌,此處指酒吞童子將人肉醋漬於木桶作成壽司吃。
*天竺、震旦,指印度和中國。
本段為作者表達此方為魔界鬼蜮,已不為人間。時間凝滯、空間紊亂,東間春、南間夏、西間秋、北間冬,讓頼光、保昌兩人對時光的流逝感到無所適從,只能原路退回廊道。是類浦島太郎下龍宮不知外間歲月的描寫,因此被現代專家高橋昌明分析為酒吞童子能主宰這些自然現象是佛教中龍宮雨神的象征。以圖中所示,老翁與頼光、保昌三人被描繪為淡淡的色彩,即他們是藉著老翁的袈裟和蓑帽,本不被鬼怪發覺的進行偵查,因此說制於監視,無從言語。
圖11、唐人被幽囚,庭中死骨散亂。本圖為下巻圖5,圖序由逸翁美術館校訂。
*下巻 第四段詞佚失。
圖15、眾鬼被斬逃走。本圖為下巻圖6.,圖序由逸翁美術館校訂。
下巻 第五段詞
(欠)童子、鉄石の室を、つよく構て、其中にそ臥たりける、上﨟女房達、四五人置て、うてさすれなとゝ、下知してそねたりける、何にしても、此戸をあくへき様なかりけるに、老たる、少き、二人の僧、年来の行功只今也、本尊界会、穴賢〱、本誓誤給ふなとて、袈裟の下にて、印契を結ひて、暫、祈念し給へは、かたく閑たりつる鉄石、朝の露ときえ、ゆゝしく見えつる寝所は、一時に破にけり、各、打入て見けれは、昼こそ、童子の形ちに、変しけれとも、夜は、本の躰を顕はして、長五丈計なる鬼の、頭と身は赤く、左の足は黒く、右の手は黄に、右の足は白く、左の手は青く、五色にまたらきて、眼十五、角五そ、をひたりける、是をみるに、偏に、夢の心地して、いふはかりなき、有様也、されとも、各、心を静めて、よりてうたんと、はやりけるに、若僧、の給けるは、大なる物を、其太刀にて、無相違きりおほせん事、不定也、若、おきあかる事もあらんは、ゆゝしき大事に、なりなんす、然者、我等四人して、此鬼王を、とつておさへたらは、各同心に、かしら一所を、きめてうてとそ、教られける、此儀、尤も可然とて、四人の客人、手足にとりつきて、押へたり、鬼王、頸計をもちあけて、騏驎無極めはなきか、邪見極大めはなきか、此等にはかられて、今はかうとおほゆる、敵うてやと、千声百声、叫ひけれは、頸切たる鬼共、頸もなくて、おきあかりて、走廻り、手をひろけて、をとりけり、二人の将軍、五人の兵、同心に、鬼の頸を打落つ、此鬼王の頸、天に飛登て、叫廻る事、おひたゝし、頼光、いそき、綱、公時、二人かかふとをこひて、我かふとの上に、重て、きたまひたりけり、人〱是を見て、こはいかなる事そと、見るところに、鬼の頸、舞落て、頼光のかふとの上に、くひつきぬ、頼光、の給様、眼をくしれと、の給へは、綱、公時、つとよりて、刀をぬきて、左右の目を、くしりたりけれは、鬼王の頸、死にけり、其後、甲をぬきて、見たりけれは、甲二を、くひとをしてそ、ありける
下巻 第五段詞譯
*前文詞書殘缺,劇情跳到攻打酒吞童子。
酒吞童子臥於鐵石之間,牢固如山,側侍四五上臈、女房,命其摩臂而眠。
頼光等欲入其間,無奈扉固難開,正愁無計,適見一老一少二僧立前曰:「多年修行之功,今當顯效也,眾等必成此本願!恭謹恭謹。願本誓勿誤!」二僧於袈裟下結印,誦「南無本尊界會」祈念片刻,鐵石之門如露消散,牢固之處頃刻破裂。
頼光等入內,見童子夜顯本相,異於白日。身長五丈,頭如鬼形,身赤如火,左足黑,右手黃,右足白,左手青,五色交織,十五目、五角生於其首。眾人見之,恍如夢境。然而,頼光等定心勇進,欲討之。少僧再前曰:「此物甚大,若用太刀斬之,不可有失,若其醒,則大事難成。吾等四人制其身,封其動,諸君齊心斬其首!」
眾人同意,攀其手足。鬼王驚醒,舉首大吼:「麒麟無極何在!邪見極大何在!吾為此輩謀害,今至此境,速來退敵!」千聲百聲叫喊不絕。然鬼眾已遭斬首,聞聲身起奔走,惟頭顱已斷,只能手舞足蹈。
將軍二人與五兵齊心斬其首。首落之瞬,鬼王首飛天,怒吼震天。頼光急取綱與公時之兜重於己兜。眾人見之驚道:「這是何事?」鬼首落下,咬頼光兜。頼光呼:「抉其目!」綱與公時速拔刀各抉其左右目,鬼王首遂斃。
其後頼光脫兜視之,鬼牙已穿透兩兜矣。
*上臈,京中高級的女官。女房,普通宮女。此處意為酒吞童子睡覺時命拐來的女眷們在一旁為其按摩。
*麒麟無極、邪見極大,酒吞童子側近的鬼,正體不明,為本繪卷中酒吞童子最原初的手下記載。麒麟無極現代想定為帶有獨角的狛犬,疑為後世諸本中獨角青鬼星熊童子的原形。邪見極大有網頁認為是石獅,疑似後世諸本中石熊童子的原形。
茨木童子為江戶期創作,其故事內容乃後世將橋姬性轉為男改寫而成,成立年代過晚,原諸本酒吞童子繪卷中無載。
圖16、鬼王被斬,頭顱咬住頼光的頭盔。本圖為下巻圖7,圖序由逸翁美術館校訂。原繪卷和摹本皆以此圖為終,後續凱旋圖作為下巻結尾。
下巻 第六段詞
(欠)り、又、有しきるものあらひし、老女、悦いさみて、帰し程に、此年比は、鬼のちからにひかれて、却老、延齢、いきをひも有つれ、今者、鬼王の通力も、失ぬるゆゑにや、山を出かねて、老かゝまりてそ、ふしたりける、渭水を別て、重てたゝむ、呂尚父か、額の浪かと疑はれ、商山を出て、なを空かりし、遠司徒か、鬢ゆきかと、誤たれけり、旧里に帰るとも、錦の袴をきされは、買臣の勇も、なかりけり、家を離て、星霜既に、二百余廻に成ぬれは、をのつから、争か七世の孫をも、相見へき、されともなを、旧里を、おもふ心有て、都の方をそ、かへりみける、蜉蝣の齢、夕をまたぬ習にて、芭蕉の命、風にやふれしかは、いつのなしみとはなけれとも、をの〱、あはれにおほえて、袖をそしほりける
下巻 第六段詞譯
(本段前部殘欠)鬼王之首既落,川中老女聞之大喜,欲歸故里。然方踏出鬼隱之里,忽然倒臥,老態愈顯。此婦因鬼王之力,二百年不老,得享不死。
今鬼王通力既失,婦亦不能出山。呂尚父欲再離渭水,其額之褶皺豈非如此?遠司徒欲出商山,其鬢發之白雪豈非若此?
歸鄉之際,未著錦袴,亦無買臣之勇。離家至今,星霜履移二百余載,安能見七世之孫?
息絕之前,或因思故鄉,仰首望都方。
蜉蝣之齡,不待夕陽;芭蕉之命,風破無常。
頼光雖非舊交,見其淒然命盡,亦袖濕淚垂。
*呂尚父,姜太公呂望。袁司徒,袁安官至司徒,指《後漢書》袁安傳的袁安臥雪之話,與《史記》商山四皓中的東園公,被混淆成同一人所致。這種排比句式源出自『本朝文粋』巻三所載,正暦二年(991)巨爲時作『六條右大臣辭職表勅』中的「昔呂尚父之面波、別渭水而猶疊、園司徒之鬢雪、出商山而既寒」。
*買臣,指《漢書》朱買臣傳中朱買臣休妻,學成後錦衣還鄉之話。
*七世孫,指南朝劉義慶著志怪小說《幽明錄》中劉晨、阮肇天臺山遇仙之話。
圖18、焚燒群鬼屍骸,運出鬼王之首,洗衣老婦死去。本圖為下巻圖7最終圖的一部。
下巻 第七段詞
四人の客人、官□(兵カ)、ことゆゑなく、大江山の、有し道まて帰ぬ、此時、四人の人〱、申されけるは、このほとの、御なこり、難忘侍るものかな、宣旨をかふり給へる、将軍達にておハしませハ、打平け給ハん事ハ、左右に及はねとも、ゆゝしき大事と□□侍て、我等、御共しつる也、今者、是より暇を申て、罷帰へし、当帝をハ、よの常の王とは、思給へからす、昔より今にいたるまて、賢王あまた、ましますといひなから、衆生化度の、方便によりて、粟散の王とは、生給へとも、慈尊下生たるによて、慈氏の化儀を、ほとこし給ふ、されは、近臣百官のために、因をむすひ、遠客諸人に及まて、めくみを、あたゑましませは、本師釈尊の遺勅、誤給ハさるにあらす、当来導師の教、誠にたのみ有へし、晴明と申は、秘密真言の棟梁、竜樹菩薩の変化也、昔は白道沙門とあらはれ、今者、晴明といふはかせに生たり、陰陽の秘術を、あなかちに、執し被思しかは、二度、さすのみこと成て、かゝる賢王の御代に仕給ふ也、頼光も、我身をかろく思給へからす、致頼、頼信、維衡、保昌とて、四人の名将、おはしませとも、此人数にもさしぬけて、洛中洛外の上下に、恐敬はれ給事、則、五大尊の其中に、大威徳の化生にてまします、其故也、然れは、悪魔降伏も、世にごゑ、盗賊追討も、人に勝給へる也、四人の殿原を、人、四天とよふ事、其故有るものをや、綱は、多門天、公時者、持國天、忠道(貞光カ)は増長天、季武は、広目天、ともに天下を哀愍し、禁中を守護し給ふ、翁かことはを、疑給ふ事なかれと、語られけれは、是を聞く、貴賎上下の輩、たな心をあはせけり、さてこそ、一条の院をは、権者と、あふき奉けれ、又、頼光をは、二生の人とは、恐申けれ、保昌、の給けるは、先世の契、さとりやすく、今度の御名残、難忘、詞にも懸かたく、筆にも注しかたし、同は、御形見を給て、且は、後日の思出にもし、且は、末代の物語にもと、被申けれは、尤もとて、翁、先、白浄衣をぬきて、保昌にたてまつる、保昌、又是を給て、うは矢の鏑をぬきて、老翁に、たてまつる、山臥は、柿の衣をぬきて、保昌に奉る、保昌は、はき給へる太刀をときて、山ふしにたてまつる、老僧、是を見給て、御かた見共、取ちかゑ給ふか、浦山敷侍るに、摂津守殿、いさせ給へ、かた見、かゑ申さむとて懐より、水精の念珠を取出て、頼光にたてまつらる、其とき頼光、かふとをぬきて、老僧被重る、若僧、又、金の錫杖をとり出て、頼光に、たてまつりしかは、頼光は、腰のかたなを、若僧にたてまつりて、後、頼光、おの〱の御名をは、誰と申奉る、御在所は、何方におはしますと、尋申されけれは、老翁、の給けるは、我は、住吉の辺の、旧仁なりとて、まほろしのことくにて、失給ぬ、山ふしは、熊野山、那智の辺に侍る也、名をは、雲滝と申とて、是も、かきけつやうに、失られけり、老僧、の給けるは、此僧は、八幡の辺に侍るか、摂津守殿へ、御祈濤のために、参たりとて、雲煙のことくにて、失られけり、若僧は、延暦寺の辺に住する、沙門なりとて、何も皆、失られにけり倩、此心を案するに、是併、年来、愚をかけ、志を運し霊神達、且は、鎮護國家の誓により、且は、利益衆生の、願にまかせて、我等を守護し給けるよと、弥たのもしく、かたしけなく思奉る事、限なし、凡、神の威を顕事は、是、人の崇奉るにより、人の運の全する事は、又、神の助にあらすや、たとへは、響の音に応するかことく、月の水にやとるかことし、感応、みちましはる事、よの常の習といひなから、いちしるき事、上古にも、末代にも、ためしすくなきことゝそおほえし
下巻 第七段詞譯文
客四人及隨行官兵順利歸至大江山舊道。此時,四人辭曰:
「此行難別,誠令人難忘。雖將軍受宣旨,難以左右征伐,但因事重大,吾等特此隨侍。今請辭行,恭候離去。今上之帝非尋常俗王,古今賢君眾多,然此帝由救濟眾生之教化而生,後以彌勒菩薩之化儀施教於民。近臣百官得恩澤,遠方百姓亦受惠,但此豈違釋迦如來遺旨乎?本來,導師之教,誠賴其真。晴明者,真言密教之棟樑,龍樹菩薩化身也。昔以白道沙門現身,今覆以晴明博士再生。其習陰陽秘術,二度為『指神子』,侍奉賢王。頼光殿,勿自輕。致頼、頼信、維衡、保昌四名將皆卓越,然公之才略尤勝於眾。洛中洛外皆敬仰,蓋因公乃五大尊中大威德明王之化身。妖魔降伏,盜賊追捕,皆超凡於常。公之郎等四人稱『四天』,有其理也。綱乃多門天、公時乃持國天、忠道乃增長天、季武乃廣目天,皆護衛天下,捍衛宮中。請勿懷疑翁言。」
聞此言,貴賤上下之輩無別,俱合掌拜頼光。
翁又曰:「當敬一條院為神佛,且以頼光為二生德者,宜心存敬畏。」
保昌上前曰:「前世契緣易悟,此別難忘,詞難盡述,筆難描寫。請交換形見,作後日之憶,亦為物語延傳後代。」
翁承諾,脫白浄衣贈保昌;保昌以上矢之鏑還翁。山伏脫柿衣予保昌,保昌則以佩刀贈山伏。
老僧見形見交換,羨而對頼光曰:「頼光殿,請坐,願換形見。」遂取水精念珠奉於頼光;頼光脫兜,戴至老僧頭上。若僧取金錫杖贈頼光,頼光則以腰刀還之。
頼光問曰:「諸位尊名何如?所居何處?」
白翁對曰:「吾乃住吉之舊人。」言訖,化作幻影而滅。
山伏答曰:「吾居熊野山那智,名雲瀧。」言訖,亦掻然消失。
老僧曰:「吾乃八幡之人,為摂津守祈禱來此。」言訖,若雲煙而散。
若僧曰:「吾乃延曆寺沙門。」言訖,皆如他人般隱遁。
頼光詳思此事感曰:「實乃長年信仰之靈神憑依,護吾等,或因鎮護國家之誓,或為利益衆生之願。此等靈神之力,誠為可賴、感激無已。」神威顯赫,民信仰以致之。人之運得以全遂,必賴神之助。譬如電閃響雷,月影映水,乃世常理。神佛感應雖為世常,然如今日之顯著顯現,古今罕有也。
*今上之帝,指一條天皇,此時恐為十歲孩童。實質掌權者為藤原道長。
*龍樹菩薩,大乘佛學的創始人。指神子,意為陰陽師中占卜特別靈驗的人。正史上被稱作指神子的名人為安倍泰親,是安倍晴明之五代孙,因預言平家滅亡的時間被稱為指神子。其人事蹟多於晴明混淆,此處恐為安倍泰親創下的美名被推及至先祖安倍晴明身上。
*大威德明王,又稱怖畏金剛、大威德金剛,閻魔敵。是文殊菩薩之忿怒化現相。源賴光幼名文殊丸。多田神社社傳建社時曾有源賴光親手雕的文殊菩薩像。
牛頭天王為蘇民將來信仰,與傳統上對源賴光的信仰沒有任何關聯。
*形見,紀念品之意。
*白翁為住吉明神化身,山伏為熊野那智瀧神化身,老僧為八幡神化身,若僧為延曆寺日吉山王権現化身。(日吉大社與延曆寺神佛習合)
圖19、四神與頼光、保昌交換紀念品。本圖與上巻圖6中在山中遇見四神之處是同一場所。
下巻 第八段詞
今者、本の七人の輩と、鬼王の取置し人〱、相共に、大江山のふもと、いくのゝ道のほとに仮庵作て、忠道を使として、いそき迎の馬人催して、来へき由、申遣す、児、又女房共の親類、眷属にいたるまて、此使、告廻たりけれは、彼家く、騒き悦、のゝしる事かきりなし、うれしきにも、つらきにも、先立物は涙也、輿車、馬人、思〻に大江山へと、いそきけれは、霞を隔つる、いくのゝ道も遠からす、あきれまとへり、或は、妻にあひ、夫にあふて、夢かや、ゆめにあらさるかと、うたかひ、迷える人もあり、又、親を尋に、をやもなく、子を尋に、子もなきたくひ、かなしみをいたき、歎あふ事、限なし、かくて、有へき事ならねは、をの〱、家地へいそきけり、二人の大将軍は、其すかたをあらためす、柿の衣の上に鎧をき、或は頭巾を、眉半に責入て、かふとを、のけひたいにきなして、都へそ入られける、道〻、所〻、山〻、関〻に、是を見るもの、数をしらすそ有ける、今日既に、摂津守頼光、丹後守保昌、鬼王の頸を、随身して、都へ入由、聞へしかは、彼郎等共、馳来て、両将の軍兵、大勢也、見物の道俗男女、幾千万といふ、数をしらす、人は踵をそはたて、車は轅をめくらす事をえす、弓箭の家に生れ、武勇の道に入て、芸をあらはし、名をあくる事、勝計するに、及はねとも、魔王、鬼神を、随ふる事、田村利仁の外は、珍事なりと、声〻口〻に、さゝめきあへり、毒鬼を、大内へ入る鼠事、有へからすとて、大路をわたされけれは、主上、〻皇より始奉て、摂政、関白、以下にいたるまて、車を飛て、ゑいらん有けり、鬼王の頸といひ、将軍の気色といひ、誠に耳目を、驚かしけり、事の由を、奏しけれは、不思議の由、宣下有て、彼頸をは、宇治の宝蔵にそ、納られける、御堂入道大相國、御参内有て被申けるは、上古より末代にいたるまて、代〻、朝敵を、打なひくる輩、多しといへとも、かゝる希代の勝事に及ふ事、先蹤、承はり及はす、早速に、勧賞行はるへき由、取申されしかは、丹後守保昌、西夷大将軍に成て、筑前國を給る、摂津守頼光は、東夷大将軍に被成て、陸奥國をそ給はりける、凡大國には、一度、朝敵を平っれは、半國を給て、其しやう、七世にたえすと見たり、然而、我朝、本より、小國なり、一國の受領は、半國の賞にも、こゑたるをや、況や、東西の将軍の宣旨を、かふる事、莫大の勧賞たりといへとも、たれ人か支申へきと、九重の上下一同に、のゝしりけり
下巻 第八段詞譯
今七人之隨行者及被鬼王俘者,抵大江山之麓、生野之道,建簡易茅庵。忠道被遣為使,急召馬夫迎接。
忠道之消息傳遍童兒、女房及其親属,各家皆欣喜喧騒。悲喜之先,皆淚也。
轎夫抬輿、馬夫趕馬,眾皆趨赴大江山。人心急迫,竟使虛渺生野之道隔霞亦不遠。或有人夫妻團聚,疑夢為真,不敢置信;或有人尋親不見親,尋子亦無子,哀慟相慟無已。如此悲喜非常,皆急返家。
二位大將其姿未改,仍著柿衣於鎧上,或束頭巾於眉際,脫盔露額,入都城。
沿途條條道路,座座山間,宿所關隘,觀者眾多,數不勝數。
聞摂津守頼光與丹後守保昌攜鬼王之首入都,郎黨迅速赴會,軍兵眾多。圍觀之僧俗男女,千千萬萬,人踵接踵,車轅難以迴旋。眾皆議曰:「生於弓箭世家,展驍勇之才,揚顯赫之名者不可勝計;然如田村利仁之外,降魔王鬼神者,委實罕見。」隨後,因禁毒鬼入禁裏,鬼首被移至大路,自天皇、上皇及攝政、關白以下,皆急驅車叡覧。
鬼王之首及將軍之姿,實令眾人驚駭。奏報詳情,帝下宣旨,該首納入宇治寶藏。
御堂入道大相國上奏曰:「古今朝敵雖多,然如斯惡鬼,勝之實為前所未有,應速勸賞。」丹後守保昌被封為西夷大將軍,賜筑前國;摂津守頼光被封為東夷大將軍,賜陸奧國。
「大國之例,平定朝敵常封半國,賞賜七世。今我國本小,已一國授領,再賞半國,過常例。東西將軍之任命,賞勳殊大,然誰敢異議?」九重上下皆譁然。
*平忠道,『今昔物語集』記為村岡五郎平貞道,又寫為平貞通,後世作碓井貞光、碓氷貞光、碓氷定光。
*田村利仁,指坂上田村麻呂與藤原利仁被混淆成的同一人物三代討伐惡路王的故事。
*宇治寶藏,平等院鳳凰堂南西,埋著《源氏物語》雲隠卷、愛染明王的寶珠、聖德太子的舍利等。鎮壓著酒吞童子的鬼首、玉藻前的狐皮、大嶽丸的鬼首。是宇治川龍神傳說的一部。平等院原是藤原道長建的別墅,即是說埋進他自家別墅的後院裡,埋完還給兩將封了個太超過的賞,正史上的源頼光並未兼任過陸奥國的國守,也不存在東夷大將軍這種官職。
*「我朝、本より、小國なり」此句為日本中世人的史觀:相對於大國=中國來講「我朝本小」。
圖20、運鬼首凱旋入都。後續配詞來自別巻詞書,逸翁美術館校訂。
〔別巻詞書〕明治二十年(1887)自佐原八木家賣出。九枚詞書分為四段合成一卷。
下巻 第十段詞
さる外に、魔界におかされて、家郷を離て、肝をくたき妻しん子を恋て、魂をけす、葬を、鬼脣にまち、骸を、魔腹に致しき、深洞に籠られて、東西をしらす、幽窟に被閑て、日月を見る事をゑす、たとへは、空を飛鳥の、羽をぬかれ、水におよく魚の、鰭をそかれたるに似たり、然を今、両将軍の、威力にひかれて、魔王の、悪害をまぬかる、赤子の、母を得たるよりもすき、早苗の、雨にあえるにも、こゑたるをや、悲み悦、相並ひ、手の舞、足のふみところを失なふ、願所は、葇遠の恵を垂れ、好隣の義を顧て、我等を本土へゆるし帰せ、且は、此珍事によりて、明王の威験を、遠方につたへ、両将の面目を、異朝に施さんと申たりけれは、申上所、無謂にあらすとて、九國に、下つかはして、便風を待へしと、定けれは、かれら、筑紫の、はかたへそ、下ける、唐人、かんさきの津に下
(以上ニテ終ル)
下巻 第十段詞譯
鬼王所俘之異人曰:「我等之外,有被魔界所虜,離家郷而心碎者,戀妻子而魂消者。我等亦以為當命喪於鬼唇,期骸於魔腹。籠於深洞,不辨東西;閉於幽窟,不見日月。如飛鳥拔羽,游魚削鰭。然今幸得両將軍之威力,免魔王之惡害。此喜如赤子得母,嫩苗得雨,悲轉為喜,欲舞忘地。願垂葇遠之恵,遂好隣之義,許我等歸本土,以此珍事傳明王之威於遠方,彰両將之功於異朝。」
頼光等允:「所言無虛。」遂命其下向九國,待便風,遂遣彼等下筑紫博多。
其後,唐人下神崎津而帰去……
圖17、唐人等帰國之大船圖。此圖在現存繪卷中接續於上卷神社之後,在摹本中位於下卷卷首。
全巻終
香取本《大江山絵詞》由大阪府池田市公益財團法人阪急文化財團的逸翁美術館所藏,是日本目前的法定重要文化財(重要文化遺產之意),由兩卷繪卷本卷和一卷『別卷詞書』組成。繪卷物的上卷高約35厘米,長約15米;下卷高35厘米,長度約13米;『別卷詞書』則高約30厘米,長約4米。『別卷詞書』只有本紙,而繪卷本卷則有較寬的襯紙,故比『別卷詞書』高5厘米。
繪卷本卷原有大量的缺漏和錯簡問題,基於榊原悟等學者的研究,由中世史學家高橋昌明推測了缺失部分並修正了錯簡,提出了將兩卷繪卷進行復原的方案。現經過復原由逸翁美術館官方網站全巻公開,想看繪卷高清大圖的讀者,可自行檢索逸翁美術館「デジ絵巻」網頁查看。
繪卷原本並無標題,現重要文化財的法定名稱《大江山絵詞》是由黑川春村等近代學者提出的考證而定名。在江戶時代中期,它有被記錄以『土佐絵酒顚童子 弐巻』為名在下総國一宮香取神宮週邊流傳(『千葉県の歴史 資料篇 中世5』千葉県史料研究財団, 2005),但不包含『別卷詞書』。該『別卷詞書』在江戶時代後期被鑒定為「吉田兼好筆」,並在捲軸標題上寫著『兼好法師真跡 小舟岳題簽』,即指日本古典名著隨筆集《徒然草》的作者卜部兼好之作。但現代皆不承認這份『別卷詞書』有能古到卜部兼好在世年間去,它的成書比兩卷繪卷本卷還要晚,被認為是室町時代中期的作品,目前其作者究竟是誰仍未確定。
所謂的鎌倉時代末期及南北朝時代文人「吉田兼好」形象,是由室町時代創始吉田神道的吉田兼供捏造的,現代認為史實上的兼好法師是鎌倉時代後期北條氏一門的富有學問的旅官ト部兼好出家後的形象。這些文人形象的虛構成就了《徒然草》的流佈和ト部兼好的盛名,也波及到了眾多的文獻和文學作品對其進行附會。不僅是《大江山繪詞》,也包括同為源頼光題材的《土蜘蛛草紙》都被稱為是「兼好法師」所筆。不過,儘管ト部兼好說可能是後世附會而來,從詞書的本身大量化用《古今和歌集》及《史記》、《漢書》等中國古典的修辭手法來看,其作者也應是當時頗有學問、飽讀詩書者。
香取本繪卷原為阪東武士千葉氏一族的大須賀氏所藏。天正十八年(1590),大須賀氏在支持宗家千葉氏的情況下,隨著北條氏小田原城落城而覆滅,滿門戰死。其中大須賀四郎的遺物傳給了其女兒(1587-1659, 平山重正著『香取群書集成』八木書店, 2008)。這名女兒在落城時因由百姓家養育,得以幸存,後在江戶時代初期嫁入下總國香取神宮的筆頭神主大宮司秀房家(香取神宮『大禰宜家日記』享保九年六月九日條),繪卷便成為香取大宮司家的家寶世襲而來,通稱香取本。明治時代,因當時身為宮司的香取保禮急需用錢,於1887年2月從名為城哲治的人那里借款150日元時用來抵押,利息為6個月2日元,但未能償還。同年7月,他以200日元的價格將「大江山繪巻物貳軸」賣給了松浦家(同年刀店賣刀一把長船光忠刀真品的賣出記錄是120日元)。1934年11月,再被松浦家拍賣,由東京的收藏家兼美術商本山豐實將其拍下。翌年,本山又從佐原的八木善助家處獲得了『別卷詞書』一卷。1936年5月6日受文部省指定為舊國寶。1938年8月,再被小林一三(號逸翁)從本山手中買下。當時,小林還從本山手中購買了『俊忠卿歌卷』和『春日靈驗記』等,共計四件,總價達7萬日元(相當於2020年1億2千萬日元)。小林於1957年逝,其宅邸雅俗山莊被改建為逸翁美術館。
此外,收藏藤原攝關家嫡流近衛家所傳的古文書的陽明文庫,藏有一冊《酒天童子物語 繪詞》(共12紙),傳近衛前久(1536-1612)筆。文本與香取本上卷第一段至第二段的前欠部分相對應,能補充香取本部分前缺詞書,但後文與香取本下巻的詞書存在一定的差異。靜嘉堂文庫則藏有江戶時代後期常陸國土浦的國學者色川三中在進行香取文書調查時記下的抄本,補充了『別巻詞書』後面缺失的一頁內容。
關於酒吞童子物語的成立時期,最早的確切記載出現在應永二十七年(1420)伏見宮貞成親王的『物語目錄』中所列的「酒天童子物語 一帖」(《図書寮叢刊》『看聞日記』紙背文書149號),可見其祖本15世紀初時已經完成並在宮中流行。更早為『東院每日雜々記』応永二年(1395)六月十日條「宗觀房賴光物語持來」,雖根據這短短的一句無法確定「賴光物語」具體是否指酒吞童子的故事,但為14世紀酒吞童子物語的祖本已成型提供了相當的可能性。陽明文庫本的來源,即可能為這些宮中流行的作品。現代對香取本繪卷的推定是14-15世紀,較有可能是千葉氏胤(1337-1365)時代的作品,千葉氏胤是當時有名的歌人,《新千載和歌集》中收錄了他的多首和歌,香取本可能由千葉氏胤在京都時接觸到繪卷的祖本後命土佐派的繪師作成。若是如此,酒吞童子物語的最原始創作者究竟是誰還有待未來更多的研究。
香取本的故事情節屬於為了描述源頼光武威的英雄物語,對酒吞童子也賦予了眼神擁有智慧感、具有能造成風暴和旱災、停滯時間空間賦予洗衣婦「永生」的神通力的佛敵的形象,稱其為酒天童子,喝下毒酒露出原形以後,畫為五角複眼龍首的形象。相對而言,以古法眼本為首的伊吹山系,將酒吞童子描寫為醉酒而癲狂、貪杯好事的形象,連名字都改成了酒顚童子,某種程度上來講,香取本的格調要相對跟高明一些。
後世的『御伽草子』諸本則削弱了將源賴光神話化特性,在酒吞童子被砍頭後加筆出「素聞出家人不打誑語,孰知鬼神才不欺。」的名句,意在批判源賴光變裝欺騙酒吞童子喝下毒酒是失德的卑鄙行為。這種轉變可能因為後世武士道思想的萌發,給武家貴族強加了撒謊是卑鄙、膽小行為的思想,連兩軍交戰,都要在互報姓名後進行呆板的一對一戰鬥,即一騎討,兩人夾擊或後方襲擊,會被視為「騙討」行為,是「卑鄙懦夫之舉」。哪怕香取本等古本的主題其實是在體現智取比強攻更重要、不費一兵一卒的完勝才是真正受民眾歌頌的英雄。
武士道思想產生的風氣,使人們重新審視昔日的名作,不再盲目歌頌源賴光一方,創作出茨木童子來豐滿酒吞童子一側的故事背景,將酒吞童子描寫為原本是未婚妻被奪被迫出家受迫害的美少年等種種不一身世的說法,以博同情。江戶期的歌舞伎淨琉璃等題材,更是有將源賴光一改為反派惡役、鬼族是無辜者的表現。給予現代流行文化的影響,便是小說、遊戲中多為源賴光多被設定為反派,酒吞童子被設定為脫罪化的正面形象。現代人雖早已摒棄陳腐的武士道教條式思想,但老套的勇者打敗魔王的RPG故事早已看膩,反英雄比尊重古典名作更加有趣。會出現這樣的演變也是時代發展自然而然的結果,但筆者還是希望還原故事最初的原貌,讓大家了解源典,體驗到古典本身的優美,故而有了這篇譯文。