2022-05-10|閱讀時間 ‧ 約 53 分鐘

滾地郎 地に這うもの 張文環 日文金句

    台灣日治時期(1895~1945),這短短的50年間培育出的優良台灣文學家,日文寫作已達巔峰。如呂赫瑞、龍瑛宗.....
    這一代日文書寫者在二二八事件後,有人被迫害,有人從此不再參與任何台灣社會事務。日文世代的光芒也從此被掩沒。真的很可惜😣
    張文環先生在戒嚴時代(1970年代)提筆寫下他自身經歷的台灣大河小說,只可惜在日本剛發表完,打算續集✍️時,因心臟病逝世,留下他的最長篇小說,滾地郎。
    這篇文章是將日文原作《地に這うもの》做整理,摘錄書中我認為串連起劇情的佳句。
    內文簡介:主要聚焦於日治台灣初期,以悲情養子陳啟敏的身分主述。從他身邊拓展出的人物網,交織出一個時代縮影。
    有興趣的朋友在圖書館可以找到中文版來閱讀,會日文的朋友,在此十分推薦在鴻儒堂購買來仔細閱覽。
    以下為閱覽過後自行編的日文金句,時代的個人悲情縮影在字句間令人感到不捨。
    編輯 白佳宜
    地に這うもの
    裏寂(うらさび)れた森の間がくれに、季節外れの山芙蓉(やまふよう)が咲いていた。
    桃色とは場違いな感じだった。そのせいか花の色合いは派手に見えたが、寂しげに思われた。
    千田真喜男は切り通し坂の薪場で、日向ぼっこをしていた。朝の9時頃は、山の部落から、その土地の産物を担ってくる百姓達がもう梅仔坑庄市場に下(お)りている。
    朝陽を受けた山と丘は、眠りから覚めたばかりのようにひっそりとして、竹鷄(やまうずら)だけが時々けたたましく啼く。
    p4
    大正時代の末頃から昭和十六年頃に小学校校名は統一されたが、日本人子供の学校と台湾人子供はやはり別になっていた。啓敏はちょうど大正と昭和の中間の中間の生徒である。
    p5
    日本人並みの名前を頂戴したのはいいが、啓敏にとっては、日本人でもないうえに台湾人でもなくなった。
    p6
    台湾人の場合、訓読と音読の区別が難しいので、色々と呼びやすいように頭を捻(ひね)った。
    p7
    店へ来る客たちは台湾語で、「千田兄(ちえってひゃん)」と呼んだだり、日本語をよく知っているような顔をして、ちたさん!と呼んだりした。そして正確に、センタさんと呼んでくれた客は一割もない。
    台湾人の癖に名前だけ日本人になっても、若いものならともなく、初老に近い身にとって、心からの生まれ変わりができるはずがない。
    p9
    改姓名者は「丸台日本人」と呼ばれていた。
    本物の日本人と混同しないため、戸籍名簿の上に、丸の中に台という字の入った印が押してある。
    世渡り上、正直なことばかり言ってはおれない。なるほど学問のある伜(せがれ)だけある、と保正は思った。街の人たちは、秀才(しゅうさい)の息子だ、とよくほめてくれた。
    「民族思想って、植民地では、為政者のつごう次第でどのようにでも解釈されるものなんですよ。そんなものを本気で相手にしていたら、米びつが空っぽになりますよ。……日本の風習では皆老い子に従うから、時代おくれにならないように、老人は隠居して、若いものを立てるのですよ。」
    p15
    餓鬼たちはそう言ったが、彼は黙ったまま動こうとしなかった。それを見ると子供たちはそれぞれの薪束を背負って、坂を降りていた。啟敏の眼はそのあとを追うでもなく、さればと言って、どこにも焦点が合うようすもなかったが、やがて黃ばんだ刺竹の葉に夕陽が赤く染まって、竹鶏が雛鳥たちを呼ぶ声が聞こえてきた。それに気がづくと彼はゆっくりと立ち上がって、二つの薪束の置いてある坂道の方に歩き始めた。
    p18
    竹崎庄と嘉義市は阿里山鉄道が長通しているけれども、竹崎庄の背後はけわしい山ばかりで、平坦地の方も梅仔庄ほど土壌が肥てない。人口は梅仔坑庄より多いが、部落が散在しているために、交通が便利であるにもかかわらず、一日中人通りがまばらであった。
    梅山圖書館前
    梅山圖書館前
    竹崎主要街道
    ……梅仔坑庄と竹崎庄は州道があって、交通は昭和の初め頃まで牛車を利用するか、さもなければ徒歩だった。
    竹崎車站
    p22
    陳家は店の表に向かっている部屋に神壇を設けていた、中庭から青空が見えて、神様がそこから神壇に通って来るように考えられた。
    p23
    電気のない山麓街にあるだけのランプを借りあつめて、一日前から裏庭に臨時調理場を作り、そこから煙が出ていた。
    p24
    轎を出るまで、花嫁はすくなくとも六時間近く便所へいかれない。そのあいだに、もし花嫁が便所にいくようなことがあると、彼女は寝小便の花嫁と言われる。
    町はずれにくると音楽が止まって、人夫達のがやがやいう話し声に変わった。
    話し声が川を渡り、森を抜けて、丘に登った時は、東の空は白みかかり、その下の部落はまだ朝闇の底に沈んでいた。鶏の鳴き声がのどかに聞こえた。丘の上で一休みすることになった。一時間余りぶっ通しで丘に登ったので、人夫達は額の汗を拭いていた。
    p25
    土蔵作りの家の庭先に梅の花が静かに咲いているのが見える。
    お祝儀は式をあげる前に持っていかなければならない。
    香奠は後からでもいいが、お祝儀は前日でないと縁起が悪い。
    お祝儀をもらった花婿は、披露宴の日に、親友やその他しかるべき者にともなわれて、赤ぬりの竹籠を腕に下げ、街じゅうの親友や友人の家を訪れてまわる。
    花婿の町まわりには二つの型がある。一つは新調の黒ドンスの着物を着て、茶碗みたいな帽子をかぶり、新しい布靴(ぬのぐつ)をはいてねり歩く型。木錦の新調の着物をきて、弁髪を頭のまわりにまき、新しい布靴をはいて、そと股で歩く型である。
    花嫁が籠を出る時は、町で一番仕合せなおばさんに手を引いてもらうのが習慣になっている。
    女客の宴席は男客とは別の所に設けてあるので、花嫁はそこへも回らねばならない。花嫁はこの間どこへも出ずに寝室、実家からきた婆さんに面倒を見てもらって、食事を取ることになっている。
    P27
    目上の者からの思いやりとして、花嫁にお祝儀をださらないといけない。
    お祝儀は自分の飲んだお茶の茶たくにのせる。
    このお祝儀はそっくりそのまま花嫁の臍くりになる。
    P28
    大正から昭和にかけて、台湾人名士のほとんどが当時の中等教育をうけた者であることを知って、陳久旺は地壇駄をふんで口惜しがった。
    妹だと呼ばれたのである。一般に男は知らぬ娘を大姐と呼び、親しい娘は妹々と呼ぶ。(日本式に言えば錦ちゃんくらいの意味である)
    P30
    結婚式から一週間たつと、花婿は花嫁と一緒に実家帰りをしなくてはならない。
    新婚一か月未満は、花嫁と花婿は床を別にしてはいけない。
    P31
    嫁の里帰りがすむと、陳家の正門の鴨居にかけてあった八仙人を刺繍した真紅の横幟がはずされ、これで婚家のあらゆる行事が終わる。阿錦はこれからはもはや嫁ではなく、陳家の主婦としての役割を果たさなければならない。
    P31
    公学校を出たころ、途方もない希望をいただいて、私も困ったと思っていた。
    お前も知っての通り、台湾人が役人になりたがっても、めったにうまくいかない。所詮、人間は金さえあれば、何でもできる。
    p32
    清朝時代の台湾も統治者は台湾語を知らなかった。役人と庶民とは通訳を通さないと、鴨が雷を聞いているようなものだった。
    p33
    寝室の天井の採光窓からもれてくる明かりをたよりにして、西箱記のなかの詩を低く吟じながら、わずかに郷愁をいやしていた。
    姑が台所に現れた。そして片手で卓につかまり、もう一方の手で長い煙管(きせる)を杖がわりに使って、檳榔(びんろう)をかみながら、嫁のうしろに立った。
    p35
    話によると、水商売の女には男を迷わすまじないがあって、ナムナム来る時は阿呆みたいで、帰りはふらふら、と毎晩、種豚(たねぶた)の神様を拝むのだそうである。
    p47
    阿琴はそういう母が厭で、体をよけると、母は地ベたに倒れ、そこでのたうちまわって、なおも泣きつづけた。
    これはこの老婆の一つの策戦でもあった。
    彼女がそうして阿琴にとりすがっておれば、誰も阿琴に近づくことができず、従って阿琴が金源成の老主人の死にかたの詳しい事情を誰からも聞く機会が無かろう、というのが老婆の考えであった。
    p48
    阿琴はしかし、若旦那の老父の告別式にも顔を出さないで、このまま台北に行ってしまうのは卑怯なようでもあり、名残り惜しくもある。
    p49
    阿琴の母は纏足を解いた小さな足に靴をつけ、杖をたよりにして歩く姿が心もとなかった。
    p50
    阿琴の母は汽車が梅仔庄から離れて、ひと安心したものの、財布を売ったことが娘に知れたら、どうすればいいか、それが気になって、心が重かった。
    P59
    皆が彼を阿丘仔仙(あきゅうせん)と呼んだ。仙は仙人ばかりでなく、先生の略称でもある。それに仔がついているから、ちょっとした先生の意味になる。
    丘は孔子様の名である。
    p69
    並木の蝉は煎(い)るように鳴き、樹々の枝には小鳥が飛びかっていた。
    すぐそばの埤圳(ひしゅう)の水溜りには、水牛が気持ちよさそうに首だけ水面に浮かんで、まぐさを反芻していた。
    こうして五つまでの世界が急に遠のき、啓敏は新しい世界に投げこまれた。
    p80
    自分の生家の人たちは、自分が要らないので、養子に出したのだ、と思うようになった。
    子供の顔は日焼けしてうす黒いうえに、目鼻だちがごつごつして、田舎の農家そだちがすぐわかった。
    陳進財が啓敏を手離したのも、子供が憎かったからではない。町の金満家の養子になれば、将来、奴隷になる危険もあるが、立身出世する望みもある。
    そういう親の気持ちが子にわかるはずはないが、子供の運命は子供に任せるほかない。
    p82
    お碗のかけらが
    泣いたとさ
    なぜ泣くの
    なぜ泣くの
    お嫁にいく
    どこへいく
    木のうえ
    空のうえ
    p83
    阿里山鉄道が通るようになる、両親から嘉義市で買った蜜餞(砂糖菓子)や珍しい菓子などを時々届けてくれた。お節句もすぎて、月夜の裏庭に蛍がすいすい飛ぶ季節になった。
    啓敏が来た翌年の旧暦の六月中旬に、養母に男の子が生まれた。
    p86
    啓敏を折檻(せっかん)した翌日、陳家はもとより平和な家庭にもどった。啓敏だけはぼろきれか何かのように忘れられて、阿春婆さんの部屋の隅っこの低い竹椅子に座っていた。
    p87
    しかし陳家はつぶれなかった。それは老番頭がしっかりしているうえに、若主人が
    頭がよく、その若主人の背後に、若主人よりもいっそう頭のよい若奥さんがひかえているからだと噂された。
    p88
    養子はたいてい家の後継として貰われるのではなく、実子を設けるための刺激とし
    て利用されるので、実子が生まれると養子の待遇が違ってくるのが普通である。
    p89
    この子はよく動くから、傷だらけになってしまうんだ。
    p96
    素麗は何が何んだかわからないけれど、自分の一身上のことで大人たちが談判した結果をどうしようもなく、胸がつまって言葉が出ない。
    p97
    当時の口紅のつけ方は今とはちがって唇の真ん中を一点赤くつけるだけである。
    p98
    お金を取られて、娘を手ごめにしたと派出所に訴えられてはたまったもんではない、と心でまごついた。
    p100
    台湾語だとこうしてすらすら言えるが、日本語だと心でそう思っても言葉が出ない。
    陳久旺は昨日、でたらめに気前よく解決した小娘のことが思いかえされて、妻の良識に兜をぬいた。子守と出来てしまったことをもし早く解決しなかったら街では噂がたって、どんなに町の人たちに言いふらされるかわからない。
    P101
    「そのうちに嘉義市で、トラック会社ができるそうだ。」
    「どうかな、州路の労働奉仕で、余計に仕事の負担が重くなる。」
    「そういう気持ちを持ってはいけない。自分の町をよくするには、力をお互いに供出しなくてはならないじゃないか。」
    p105
    国民学校とはいえ、入学年齢は二十歳になった生徒もいるし、結婚した生徒もいる。公学校を出て上の学校へ行く目的よりも、字が読めることと日本語をおぼえるのが大方の目的である。
    p107
    阿春婆さんはこれで養子を世話する仕事がとれたが、その夜、床に空洞ができて、余計なことをしたくやしさが涙になりそうだった。
    甲斐性のある子だと思った。公学校に入学する姿を見て、阿春婆さんは心ひそかに祈った。勉強できるように。ところが期待を裏切って、中途退学になったので、この子はやっぱり不仕合せにできている、と阿春婆さんは放り出した気持ちになった。
    帽章のない帽子ほど間が抜けて見えるものはない。当時の公学校の生徒には制服はなかった。跣足(せんそく)でも帽子をかぶってると多少生徒らしい厳しさを見せていた。しかしその帽章を取ってしまうと、単なる牛飼いか薪取りの陽よけや蚊よけの帽子にしかならない。啓敏が最初この帽子をかぶったとき、内心得意に思っていたが、
    結局、自分にそぐわないものとなった。
    p109
    台湾総督府の官吏から学校教員の準訓導にいたるまで全部文官服を着られるように制定していた。日本海軍の士官みたいに、腰に短いサーベルを下げて、訓導先生は登校するのである。祝祭日になると、長いサーベルに変わって、肩にはしゃもじ(杓文字)型の金モールの肩章をつけ、帽子には金すじひとすじが光っていた。
    毎日、短いサーベルをがちゃつかせて登校するのはさすが面倒くさくなったと見えて、大正初期ごろから丸腰になり、祝祭日だけ礼服姿の長いサーベルをつけることになった。
    p110
    自分なんか誰も泣いてくれないにちがいない。阿春婆さんとは名残り惜しいが、自分のポケットからマンゴーの実を取りあげられた日から、この情も疑わしい。
    p111
    ここの裏庭のマンゴーは、家じゅうのものが一緒に食べることになっていた。
    むろんマンゴーのことは問題にならないが、食べかけていたものを取り上げられて捨てられたのが頭にひっかかって恨めしかった。それがいっそう阿敏を孤独にさせた。
    啓敏は別にその日和をあてにしているわけではなく、毎日、ただ追われるような昼と夜がくりかえされてるだけで考える余裕がない。世の中の言う、いいとか、悪いとか、人の立場によって解釈が違うだけだ、自分の利益になることならすべていいことに決まっている。
    それならば、いいことも悪いこともない。
    言うだけ煩わしくなるばかりだ。
    だから、その煩わしさをさけるために、なるだけ人と口をきかないことと、あまり人とぶつからないことである。
    p112
    毎日、精神的に痛めつづけられるなら、むしろ、のびのびと働けたら、人生はそれ以上の意義があるのではないか、ところがいったんそんな鎖につながられるとそう簡単には断ち切れない。
    むろんこれも彼自身がそんな具体的な意識があって人に説明出来るものではない。ただ、町で目だった徹底的な孤独ものの阿呆みたいな生活態度は実はそれである。
    p113
    雪の下のような草だが、金銭草は葉がかたくつるつるして草の模様は銭のような模様がある。血液循環の特效藥だというのである。
    p115
    啓敏は二十歳(はたち)をすぎていた。この年に梅仔庄では初めて電灯がひかれて、夜などでも町は活気づいて見えた。何かしら闇から町の家並みが浮かんで、しんとしていた町の通りがにぎやかに見え、市場のそばにあった飲食店から茶碗を叩く音が聞こえるようになった。
    p116
    昼間はもみを干し、夕方頃からもみをかきあつめて藁をかぶせておく。翌朝にまた庭にひろげて干すのである。
    夕立がきそうな気配を感じると、ひとりでてんてに舞いしながらもみをかきあつめ藁をかぶせておく。
    もみが干し上がるまで、啓敏は田舎小屋で一週間や十日間くらいひとり生活をはじめる。
    ひとりで自炊し、谷間の小川で水を浴び、油灯(ランプ)の下で自分の炊いた飯やおかずに箸をつけるのはこれまたたのしいことである。誰にこだわる必要もなく、庭ですいすい飛びかわしてる蛍を眺めながら、晩食を楽しむのが何よりも体がくつろぐものである。
    夕食後のあとかたづけをすまして、しばらく軒先に竹椅子を出し団扇で蚊をはらいながら、くっきりと闇の曲線を描いてる山のうえの星空を眺める。
    自分のような人間は何一つもらわずに、蹴とばされ生まれてきたにちがいない。
    p120
    台湾人は日本語があまり上達しない反面、繊細な感情をあらわす台湾語もやがてなくなるであろう。
    p121
    西保の保正夫人の場合だと、漢文がよめるだけあって慎重である。
    できもしない言葉をむやみとつかわない。
    そのせいか人によってはとっつきにくいと感じる。
    p122
    東保の保正の方はあくまで台湾人名前に踏みとどまってるが、保正夫人と中山巡査夫人とはばかに仲がいい。
    吉田巡査夫人はこの五十がらみの台湾人婆さんと四十くらいの中山和子の友情がほほえましく思った。中山和子は心から梅仔庄が名残り惜しいうえにこの気のおけない婆さんをおいて行くのはつらいようだった。
    p123
    軍夫曾得志は日本兵と同じ服装をし、赤いたすきをかけていた。
    しかし、軍夫は皮靴ではなく、地下足袋をはいていた。
    日本兵と軍夫の区別は皮靴と足袋だったのか、いや、軍夫は戦場へ行っても丸腰だ、と陰でいうものがあった。丸腰で弾丸にあたって死んだところを思うと庄民はばからしく、暗然とした顔で軍夫を見送っていた。
    陳啓敏は餓鬼たちの歌う寂しい歌にいくらか胸のしこりをとかれもしようが、この頃の彼は生まれてはじめて虚無的な気持ちになっていた。
    p127
    大正十三年に梅仔坑庄に初めて自動車株式会社ができ、中古のフォード二台だけ買って、梅仔坑庄と大林街の州路を走っていたときである。
    p128
    阿徳は細い鉄棒を自動車の鼻先に突っ込んで車を発動させていた。
    p132
    梅仔坑庄の山の部落は竹林が多いので、金銀紙につかう竹紙製造工場がニ、三か所もあった。
    麓町であるために交通が不便である。電灯はできたが水道がまだない。
    台湾人の宿命は天にまかすだけである。
    大正十年前後に、梅仔坑庄へも民族運動の文化団体が講演に来たことがある。
    しかしあちこちで、天に代わりて、不義を打つ、という軍歌が歌われていた。こんな環境のときに秀英が阿蘭を産んだのである。
    p133
    台湾の子供は、通称、蛙ズボンをはかせられていた。前掛けにズボンのついてるような着物である。背中とお臀はまるだしで、前の下の方もあけてある。
    p134
    植民地は武の方はつかい道が少ないことを計算に入れなかった。拳鬪や唐手は香具師になって、薬売りをするか、大勢と兄弟分をむすんで、年中行事のときに、みんながあつまって獅子舞をたのしみながら酒代を稼ぐほか、ほとんど収入の目当てがない。
    p135
    文は人の陰をくぐって生活する術をおぼえるが、武は肩で風を切って生きようとするから、植民地に向かない部門である。
    言論と集会に極端な神経をつかってる植民地の警察は、この頭の単純なグループは文化団体と結びつきはしないかと神経をとがらすのである。
    そういうグループに対しては、町の人たちは表面上、町の誇りだと言ってるけれども、内心あたらずさわらずの態度でいるのである。
    檳榔(びんろう)を噛んでる口は歯くろをつけたようで、笑うと小娘ように目ぶたがほんのりと赤くなる。台湾ではこんなタイプな女を帶桃花(タイトウフア)という。
    p136
    明治生まれの女はほとんど纏足を解いているものが多い。だから阿媛は当時としては時代おくれの姿である。しかし、五十近くの年増女がバレリーナのように踵をあげて歩いてる姿はいやがおうでも男の眼をひくものである。
    山の百姓たちは豆腐屋の阿媛のことを、油ぎったうまそうな雌鶏(めんどり)見たいだと批評していた。
    p140
    嫉妬は弱者の悲哀である。
    こんな夫は先が思いやられる。
    くさっても鯛だと聞いて、妻はあきれてしまった。背に腹は変えられない。
    夫を突き飛ばしたい衝動にかられて妻はみぶるいした。
    P146
    水銀を溶かしたような夏の陽脚が影っていく町の通りを見ると、阿媛はいらいらする。百姓の足がまばらになるのが心細いのである。
    p147
    この辺一帯の拳術は、すなわち大林街から麓町の梅仔坑庄から竹崎庄にかけて二派にわかれていた。
    p153
    松明けでも旧正月だけは子供をつれて人の家を訪れてはいけない。
    P157
    体を痴漢に任していた。先刻、田圃での出来事が頭の中で絵のように浮いた。
    男がはなれていった。田圃の美しい情景が目ぶたのうちにちらついた。
    いまがそのつづきのようだった。産まれてこのかたこんな美しい環境におかれたことがない。
    痴漢は有頂天になった。うしろ手で寝室の扉をぱたんとしめる音が、ふたたび阿媛を自由にした。
    ふる里の籬の外でちらちらする幼な友だちの顔が笑って遠ざかって行くのが、せつなく胸にきて、涙がこめかみをつたわった。阿媛はそのまま眠ってしまった。
    p159
    陳啓敏の山の田圃小屋は東南の山の部落近くにあるが、王明通の新しい家は、ちょっとその反対側の西北の山の部落へゆく町はずれの路のそばにあった。
    おんどりだけが立ち上がって、首をながくのばし、晨(とき)を告げて啼いていた。東山のうえには星が一つ。櫛(くし)のような月。蒼んでる空で光ってるものはこの二つだけである。空っぽのような空はいやにむなしく胸に迫ってきた。そのうしろに悪魔が投げだした黒毛布のような雲がじっと浮かんでいた。
    P160
    纏足の足はこのごろ解いたが、竹筍のような型になった足はすぐには大きくならない。
    煙草や酒の鑑札は、家の敷地を譲り分けてもらった地主の陳さんに世話してもらうことにした。専売局の卸商を通さなけれならないので、顔の広い陳さんにお願いした。
    p161
    さて、いよいよ開業となると、看板のない店とはいえ、やはり縁起をかづく気持ちが先にたった。
    その前の日の夜、彼女は廟詣りして神の御加護を祈った。家に戻って、供物の菓子を子供二人を少しずつわたし、豚肉や鶏肉を棚にしまいこみ、鶏の臓物だけを煮て、そうめんをおとし、おやつに食べなさい、と夫に言いつけてたかせた。台所の裏口の扉をあけると、月の光は広野を洗うように地平線まで明るく照らし出していた。妻の昼間と夜が二つの姿になっているに過ぎなかった。夜の時間は一日の三分の一しかない。後の三分の二の時間は自分一人で切りひらいているみたいである。
    p162
    阿媛は店先の停仔脚(廊下)(ていしきゃく)の竹机にお茶を出し放しで、喉のかわいた百姓たちが、自由に飲めるようにしていた。
    山へ帰る百姓が、ここで待ち合わせたり、弁当をだして食べる百姓もいた。
    p163
    王明通の毎日の仕事は畑へいって、薯を植えるだけである。
    さつまいもは四か月で取れる。
    いもが取れるまで、そのつるを適当にまびきして取って帰り、
    それを煮つめて、糠をまぜれば豚の餌になる。
    あとは干薯にしてしまえば、いつまでも豚や鶏の餌がたもたれる。
    煙草は売っているが、見るだけで、敷島一個すらもらえない。散絲煙(きざみ)しか、妻はくれない。
    p166
    夫にさいなまれるとき、これを思い出すと鎮靜剤になる。
    心の中でざま見やがれと赤い舌を出すと全て冷静になる。
    しかし貞節な母にいたわれたときは胸に動悸を感じるくらい、つくづく人間になるのはつらいと思った。
    p169
    轎かきの息子だけで終わるのがいやで、阿德は自分の身のまわりのものをさっさとまとめて風呂敷に包み、嘉義市からきた母方の親戚の叔父さんについて、会社線の梅仔坑庄駅へいそぐことになった。
    田舎ものは都会生まれの小僧と違って、素朴ですれてない。そのうえ骨身惜しまずに働くから阿德は可愛がられた。
    もっとも当時の運転手はいまとちがって、エンジニアの学位を取るくらいに思われていたし、資格試験もいまのように簡単ではなかった。
    学課試験もかなりむずかしく、自動車の性能と機械部分をくわしく読んでいなかったら、学課だけの試験でも通らない。
    運転技術だけでは運転手の資格が取れないのである。これらの書物はみな日本文だから、ここにも語学の障害があって、骨が折れる。
    当時大正初期ごろの台湾の運転手は颯爽(さっそう)たるものだった。
    カフェや盛り場などは運転手の黄金時代であった。
    p170
    普段はお節句の時は廟前はがらんとして芝居などかからないが、その年は、梅仔坑庄にも自動車株式会社が設立し、会社の主催で、廟前に三日間、男女派と言われてる乱弾調の女優をまじえた芝居が、嘉義市から招じられてきた。
    p173
    親子がぐるになっている。自分はもらい子だから一人前の人間に思ってない。
    養女というつかみどころのない自分の存在がいやになった。
    養父母は養女が憎く思われたが、万が一自殺されたらたまらないから、強くあたるわけにもいかない。
    養父母と養女は、心ではいがみあってはいるが、表面上の態度は感情的に鬼ごっこしてるようだある。
    p176
    昼間、会社から正式に休みをもらって、嘉義市から大林街経由の汽車に乗り、大林街駅で梅仔坑庄行のバスに乗りかえて帰ってきたことがあった。
    王仁德にしてみれば田舎よりも都会にいた方が人生を面白おかしく暮らせる。
    p177
    大正十三年の春ごろに、梅仔坑庄有志で組織した梅仔坑庄自動車株式会社が成立して、中古のフォード二台を買った。
    当時のフォードはドアの外にステップがあった。
    そのステップに立って車の窓にしがみつくので、いつも十人近くの乗客がおくれまじと言った顔で、不平も言わず乗車料をはらっていた。
    p178
    自慢してる阿德の顔を思いだして、そのいたずらの子を産んでやろう。自分が自殺したら、彼たちがつごうがいいことばかりである。
    なるよりしかならない。秀英はかたい木製のお面のような表情をしている女が、心のなかに
    そんなたくらみをもっているとは思えなかった。
    p182
    煙管のタバコを吹かしながら、太鼓や銅羅(どら)のはやしだけで、芝居が出るまで空の舞台をいつまで眺めていても退屈しない。
    赤や黒に隈取った(くまどった)男役者が大立ち回りをやってる所が一番気に入った。
    美人と二枚目の男役者が秋波を送り、目くばせしている所を見ると、にわかに嫉妬心が湧いて、妻の坐ってる女の方へそっと視線がゆくのである。
    そこが轎かきの卑屈さだと自分も気がつかない。
    p183
    どうせ、まともに組み合わせてできた子ではないから、冒険をする方がはりあいがあって、ゆく末が楽しみである。母の秀英は健康な強い娘に育てたい一心だけで娘をどうしつければいいか、別にいい考えも持っていない。
    p185
    いくら無能な夫でも、夫がいるだけで世間からなめられない。夫は彼女にとっては用心棒的な存在である。
    p188
    昔々大昔、祖父さまが孫をつれて山へ遊びに行った。ふと大きな洞穴が目についた。なかを覗いたらすばらしい装飾がほどこしてある。二人が一緒に入ったら危険だと思って、祖父さまが先に入ってみてから孫を呼ぶつもりで、孫を洞穴の外に待たしておいて自分ひとりで入った。ところが祖父さまが洞穴に入った途端、洞穴の石戸がしまってしまった。いくら、祖父ちゃま、祖父ちゃまを呼びつづけても石戸が開かない。
    とうとう孫はそこでなん日も、祖父を呼んでるうちに血を吐いて死んだ。
    それがほととぎすという鳥に産まれかわったというのである。
    母の話声が細くなって、阿蘭もううつらうつらとなり、可哀想な孫の幻影を追っているうちに母子は静かな夢のなかに誘われていった。
    p189
    梅仔坑庄には大正十二年に自動株式会社ができ、昭和三年に電灯がつくようになった。昭和五年の春ごろに、梅仔坑庄の新しい床屋のおかみさんが断髪姿で店の前に現れた。町の人たちは目を見はった。鶉(うずら)のように尻尾がなくなって、女の頭は毛がぬけたようにばかにまるっこく見えた。しかし、そのうちにいつのまにか、国民学校の女教員までそういう頭になった。
    阿蘭を産むまでの娘時代の秀英は、柏もち型に髪を束ねていたが、阿蘭を産まれてからほとんど髪を櫛まきにしていた。
    当時の野良仕事の女は、やはり草鞋か地下足袋をはいていた。
    当時の国民学校の兒童でさえほとんど跣足で登校していた。祭日の式のあるときだけ跣足を禁じていた。町の裕福な家庭の娘でも、家を出るときだけワシントン靴をはいていたが、学校へ来るとぬいでしまう。
    白いワシントン靴をはいてるのは日本人小学校の児童だけである。台湾国民学校はまだ制服の規定もなければ靴もはかない。
    p190
    阿蘭は畑へ行くより薪取りについていきたい。山へ行けば薪取りの餓鬼たちに出くわすと面白い。花やら季節はずれの果実まで摘んでくれる。
    大人の世界からはみだされた大人が、子供の加入したみたいです。
    おじさんの目はいつもにこにこしていた。
    p194
    泣いたあとの母の後ろ姿は何かしら、幼ない阿蘭にもさびしく思われ、薄暗い森のなかはしんとして、埤圳の流れはちょろちょろ囁いてるように聞こえた。
    母子二人で呼びあう山の木霊は秀英には何と言ってもうれしい。
    p196
    母は山芋の葉を摘むんで埤圳できれいに洗ってから、その山芋の葉に水をいれて阿蘭の前に持ってきた。水は山芋の葉のなかで真珠のようにころがり落ちそうにゆらいだ。
    p198
    陳家における啓敏の地位は、養子というよりも薪取りと山の水田をうけもった長期契約の工人である。
    p199
    自分が日本人名前に変わり、日本人になったことは、これから啞になれ、と命じられてるのと同じことになる。
    海軍あがりの巡查だけあって、見聞がひろいせいか人道主義的な所があって、ユーモアもある。人間の運命に神しか知らない、と思うのも船乗り時代の影響であるかも知れない。
    P200
    啓敏はその精神的な傷でいっそう卑屈になって、人嫌いになった。そのため、三十歳ではあるがずっと老けて見えた。薪取りに来る子供たちと遊ぶこともなくなった。その年の冬は山の切り通し坂で、日向ぼっこばかりしていた。切り通し坂の踊り場のところは夢の跡のようで、田圃小屋にいるのが退屈になると、自然に足がここへ向かうのである。ここ二十数年間の歳月がこの広場で流れていた。
    人間が悩むことは明日という日があるからである。絶望的になったときは、ただ今日という日をくりかえしているだけにすぎない。
    p201
    夜だぞ、それを思い出すと、この気の小さい男が、なぜあのときにそんな発作的な勇気が出たのだろうか。
    p206
    こういうときに相談相手がないのは、一生の不幸の一つであると、つくづく思った。秀英も同じである。なるがままの人生しか知らない。目標を立てて明日のために努力する方法を知らない。
    p209
    地をぬってない壁の隙間から星が見える。星を見ているうちに、環境はもとのままだが頭だけが変わって、想像だけがたくましくなった。その無数の星は神様の財産なのだ。
    昨日はその一つをおとしてくれたが、取り損ないそうである。
    p215
    台湾はお節句がすぎるまでは、本格的な夏にならない。曇った日は残冬で晴れた日は夏みたいである。
    「娘をいたずら半分に、もて遊ばれてはたまらないと思ったからです。」
    「それなら仲人をたてて談判すればいいではないか、非常手段を用いなくても」
    p222
    吉田巡查はユーモアをふくんだ言い方ではあるが、西保の保正には風刺的に聞こえた。
    p224
    二百四十元なら、話合いでも取れる。捉姦の方法を取らないでもいい。
    p227
    もし恥をかかすようなことを仕出かしたら、お前にやった上述の不動産はみな取り上げてしまう。
    p228
    このごろのように肥料不足状態では、山の水田は、一甲歩の収穫がよくて、一期は三千斤で、二期合わせて六十斤になる。一斤が百六十匁である。その半分を米に換算すれば、約三割を引いて二千百斤あまりの米が残ることになる。夫婦と娘合わせて、三人家族の要る毎月の米は、四十斤以上はかかる。年に五百斤あまりの米が残る。年に五百斤至六百斤の自家用米が要る。当時の米代が十一斤十匁だから、一斤は七銭余りになる。年收一千五百斤が生活費から生産費用にあてられるわけで。毎月に割当てれば、十五元の収入にもならない。
    p229
    一番大事なのはマッチだ、蝋燭だ。塩だ、そのほか、今夜は阿秀母子も来るだろう。山神及び土地公様を拝まなくてはならない。
    p230
    あたりは闇の底に沈んだように真っ暗になったが田圃の水面だけ星空を映してきらきらと見えた。
    p233
    阿蘭はわけのわからない鳥の鳴き声以外、蒼んでる空から、神様が降りて聞いてるように気がしてならなかった。阿蘭はただ家中が無事であればいいという母の願いを一生忘れなかった。
    p234
    二人は奇跡的にいいお巡りさんに出くわして、数年間苦しんだ希望がとげられた。
    p235
    握り飯のような月が中天にかかって、空間に描いた黒い山の曲線は、天國と娑婆を区切ってるようなおごそかさを感じた。
    稲穂は露を一杯ふくんで、西へ傾いた月の光をやどしていた。
    p236
    跣足で足をぬらしたが心地よく感じた。
    部屋じゅうに光が落ちて、風までがしたしまれる暖かさである。
    p238
    歌声につられて、阿蘭まで歌い出した。しかし啓敏は見てはいられなかった。彼は阿蘭の手を取ると引っぱるように、早く店に行かねばならないと思った。
    昭和十三年からの台湾は、田舎街でも、ほとんど毎日のように、出征軍人の見送りがあった。
    志願兵から徵兵制度が施行された。
    最初、軍歌を聞いたとき、啓敏は、男と産まれて、銃を持って勇ましく広野を駆け回ることが出来るのを、羨ましく思った。
    しかし、妻をもった今日、それは恐くてならない。罪のない人を殺し、わけもわからず殺されることは恐ろしいことだと思った。
    昨日まで轎かきを殺そうとした自分ではないか、と自分のおびえてる理由が解かせなかった。
    p239
    阿蘭の弁髪の尻尾は赤い毛糸で結わえてあった。台湾着物の上下は木綿の藤色で無地なのを見ると、大人の着物をつくった残り布だと想像された。
    p241
    相思樹の並木の梢は、太陽が輝いて、山鳩が鳴いていた。
    p242
    啓敏は休む暇もなく、雑木林から壺を掘りだして、なかみ全部を秀英に渡してから、竹林に入った。まず鶏小屋をつくることである。
    店の裏庭でうろうろしてる痩せ犬一匹をもらってくることだ。
    p243
    筧の竹が十本あれば、埤圳の水が台所の瓶(かめ)のなかに入るのである。
    ここは筧の水でいくらでもぜいたくに水がつかえる。竹を立てて、竹の中でがらがら地面におちる鉄棒の音までうれしい新家庭の音楽に聞こえる。
    p 244
    山高く、皇帝遠し、これが一番気楽な生活である。
    漢民族はそれで至る所に流れて行く。
    夫婦二人は、出来得る限り目立たない生活をしたいと願っていた。そのため啓敏が阿蘭を国民学校に入れる、と聞いて、阿蘭は手を叩いている。妻は笑ってはいるが不安をおぼえるのである。
    ひっそりした静かな生活が安全なのである。阿蘭が学校とつながりをもつことは、自分の家が隙を狙われる機会が多いような気がしてならない。
    ただぶっつかって来そうな社会的なつながりに身をよけたい気だけである。
    二人は夫婦になり、子供がついてると孤独では生きるわけにはいかない。
    この一家だけではなく、貧しい家庭の者が這い上がろうとするには、つい金持よりも貧乏人の方が気前がいいのはそのせいではないかと思うである。
    p 244
    山高く、皇帝遠し、これが一番気楽な生活である。
    漢民族はそれで至る所に流れて行く。
    夫婦二人は、出来得る限り目立たない生活をしたいと願っていた。そのため啓敏が阿蘭を国民学校に入れる、と聞いて、阿蘭は手を叩いている。妻は笑ってはいるが不安をおぼえるのである。
    ひっそりした静かな生活が安全なのである。阿蘭が学校とつながりをもつことは、自分の家が隙を狙われる機会が多いような気がしてならない。
    ただぶっつかって来そうな社会的なつながりに身をよけたい気だけである。
    二人は夫婦になり、子供がついてると孤独では生きるわけにはいかない。
    この一家だけではなく、貧しい家庭の者が這い上がろうとするには、つい金持よりも貧乏人の方が気前がいいのはそのせいではないかと思うである。
    p251
    鶏を一羽と鳶鳥一羽をつぶしたから、庭がからっぽになって、塒はがらんどうになったようで、寂しさが胸にこみあげた。まだ鳶鳥がひとつがいと鶏がひとつがいいる。そのうちにまた増えるよ。
    p253
    小屋に向かって右の竹林山から傾斜した丘の先に、屯くらいの大きな石がある。
    その石は鯰の頭に似ている。その鼻先に銀紙をのせて、小石をそのうえにおいた。
    大地から自然に生まれた石は風雨にさらされても平然無事である。人間の生命力もそれにあやかりたい。
    p257
    帰り路、古手の産婆をつかってはどうかなと不安になった。政府規定の新しい試験を受けた産婆を呼ぶつもりでいたが、妙なことになってしまった。
    p258
    総督府が州庁に、州庁が郡役所に、郡役所が街庄役場に、その水田の耕作面積数によって、供出米数量を割当てられていた。千田真喜男は、梅仔坑庄で唯一の日本人姓名をもっている農民である。だから模範農民にならなくてはならない。
    p259
    このごろになってから、千田さんと呼ばれるのは、護身用の言葉のような気がしてならない。いままで、千田さんと呼ばれるとひやかされてるような不快な感じがした。阿敏と呼ばれた方が親しまれる。
    それを百姓たちは、啓敏が日本人がぶれになったというようになった。
    p260
    目立たない生活を願いながらも、目立つ百姓になってしまったのが憂鬱なのである。
    啓敏が涙が出るほどありがたい。考えてみれば、たのしいこともあったが、たしかに結婚前よりもつらいことが多い。
    ほんとにこの子は大人をおどろかすよ、と妻が言うのである。
    p261
    啓敏は戦争などにはかまっていられない。百姓の仕事は尽きないからである。
    p262
    啓敏はよこから妻の顔を見て、やはり祈りの言葉が出ない。
    山は山なりのにぎわいを感じるものがあった。竹林は色があせて、雑木林の葉はほとんど霜風におとされていた。
    山の奥の方の部落から獅子舞いの太鼓銅羅を鳴らしてる音がかすかに聞こえた。
    p265
    貧しい牧童たちは、清明節には家でおもちをつくらなくても、墓場掃除を見に行けば、誰でも墓詣りの家族からもちがもらえる習慣であった。しかし戦争が始まってからは、糯米(もちごめ)が高くなったために、かわりに五銭銀貨や銅貨を牧童にやることになった。
    と啓敏は墓場でもうもう立ち昇る線香の煙や銀紙を焼いた焔が赤い蝶のように舞い上がってる紙に見惚れながらそんなことを考えた。
    p272
    派出所当局は、常に異民族統治する神経をゆるめない。日本人名前に改姓名する資格は十分にある。しかし彼がもしりっぱな日本人であるならば、子使につかわれてる養子が果たして、日本人名前に改姓名することが、適当であるかどうか思い至らなればならない。
    赤紙に六元を包み、オス鵞鳥一羽と鶏二羽、それから農家によくある乾菜を籠に入れて、孫に担いがせた。産婆さんは宝島から引きあげるような顔をしていた。
    p 273
    啓敏は市場で用をたしてから、いそいで校門前の竜眼樹の所に戻って、陰の石に腰を下ろして、 阿蘭が出てくるを待った。生徒が式場に吸われるように入ってしまうと校庭は空しく、太陽だけが美しく輝いていた。十数年前の自分の留学時のことが脳裏に浮かんで、今日とは違った身分で学校の前に現れた自分が夢のように思われた。
    戦争のことは海のはて、そして地平線の向こうにあることである。
    p280
    祥吉は、このごろ、あちゃんと呼ぶようになった。しょうちゃんよりも、母音の最初の一句の阿祥ちゃんの最後の一句のちゃんを組み合わせて呼んだ方がよみ易いのである。日本人名に改姓名した台湾人の赤ちゃんらしい呼び方である。
    p281
    秀英は啓敏にくらべて、宿命論的で、暢気そうに見える。絶望のどん底から這い上がってきた自分である。
    p282
    山の農家で一番厄介なのは鳶が家畜類の雛を狙うことである。
    塒のそばに、猿を飼っておくと、鶏が疫病にかからないという迷信があるので、啓敏は街から十五元で一匹買ってきた。竿につかないであるが、めす猿のため、月のものが竿を真っ赤に汚すので、秀英は猿をきらったが、鶏の役病を防ぐと思えば、我慢しなくてはならない。
    P283
    阿蘭が、学校で一番人気があることは、啓敏夫婦にとっては不安の種子なのである。啓敏夫婦は、娘が途方もない玉の輿に乗る夢を見てはいない。
    自作農のまじめな息子のもとにとつぎ、りっぱな母になって、将来、医者か、弁護士の孫を産んでくれたら、わが家の前途は洋々たるものだと望んでいた。
    阿蘭が学校へ行ってから、目だつほど背丈をのびて、物事に対するわきまえかたが急に大人びてきた。そういう阿蘭を慕って、日曜日など学校の女の先生が田寮へ訪れてくるときがある。
    p284
    阿蘭を嘉義市の官立の女学校の試験をうけるように、校長からすすめられたが、女学校を出たら100%特種看護婦にとられる可能性があるから、阿蘭自身もうけたいとは思わない。男の先生はすすめるが、女の先生は黙って阿蘭の顔ばかり見つめるので、阿蘭も別に女学校へ行きたいとは思わない。
    娘の阿蘭の初潮が今朝きたことを聞かされて、啓敏は暗い気持ちになった。
    彼は可愛い娘が一人まえの女になることを恐れていた。
    p286
    星空は平和に見えるけれど、地上はごったがえしのような気がした。
    「人間って、成るようにしかならない。私らの知ったことじゃないよ。ほしいものだけもって行けばいいじゃないの。まさか山や畑までもって行かれるわけはないでしょう。」
    妻にそう言われれば、なるほどその通りである。女はお産のようなことがあるから、男と違って、あきらめが早いと啓敏は思った。
    昼間の心労で、人間は生きても死んでも同じことだとときどき思う。
    妻がなければむしろ死んだ方が気楽だ。仕事に追われるだけ、なら、まだしもいいが人間の縱橫の関係が煩わしい。仕事、人間の相互関係、税金、兵隊、病気、これに追われて死ぬだけである。
    p287
    阿ちゃんと遊んでる阿蘭の胸がゆたかになったことに気がつくと、憂鬱に成る。すべて自分から遠ざかって行く感じである。
    階級だとは、はっきりした意識よりも、釈然としないだけである。
    分家してもらってから、よかれあしかれ、生活の自由にある。
    しかし、自分一人だけのことを考えるわけにはいかない、家庭という一つの単位がある。生活の自信がついたと同時に、この単位を維持するために、絶えず神経をつかわなくてはならない。
    p288
    本家で虐げられてはいたが、紳士とか君子の正体を見てきている。そのために、啓敏は土に頼って、彼はわき見しないで一心不乱に働くのが人生を開拓する唯一の路だと心得ている。
    阿蘭が汗をかいて、母に言われたままの物を持って帰ってくるのを見ると、啓敏ははらはらして、本家の感情を害しはないか、また阿蘭の人気を利用して、こんなことをしていいのか、と心で迷う。女の頭は男と違ってよく神経が働く。神経がふとくなったり細くなったりするのが女であるような感じがした。
    p289
    子牛は母牛を見失ったのではなく、くぼ地におちて、ふちに立ってる母牛を呼んでいたのである。
    神様、私たちを憐んで、無事であるようにお護りください。啓敏も、実は心でやはりそう願っていたが、口にはっきり出して言い表せない。やはり、女の方が切実に、物事に対する理解力が強いと啓敏は思った。
    p290
    嘉義市に相当な地震の被害があったとか、やがて敵機が台湾の上空に現れたとかいう話が伝わり、街では不安の色が濃くなり、山奥の部落に、嘉義市から疎開してきたものが随分ふえてきた。石けんがないのは、啓敏にはむしろ大あたりといいたいくらいだった。
    雑木林のなかに二本のもくのみがあった。もくのみは石けんがわりに成るので飛ぶようにうれた。
    高雄や台北、嘉義市にも空襲があると伝えられた。
    p291
    阿蘭が学校をやめて、この店の店員になりたいと言いだして、啓敏は驚かされた。
    父娘とも学校を中途退学になるのかと啓敏啓敏は釈然としなかった。
    p294
    所詮、女は嫁に行くだけである。無邪気な子供たちにまじって、いままでのように遊べないことがつらいのである。
    p295
    鯰(なまず)のひげが地震を予感するという。山の猿でも気候の急変を予感したときは夜鳴きをする。
    p296
    近代的に言えば自由恋愛だが、また野合という観念がある。
    縁談のときに、必ずお互いにの生年月日と名前を書いた赤紙を祖先の位牌の前に十二日以上置くことになっている。赤紙をおいてるあいだに、神壇の茶碗を取りおとしたリ、これでもまた赤紙をおいておくなら、人の見ない所で、鶏の首をねじり殺して放っとけば、家じゅうが縁起が悪いとさわぎ出して、この縁談はおしまいになる。
    p299
    街で一番高い月給を払う所は庄役場である。
    p301
    この頃の街は、百姓でもゲートルををまかなければ、役所のものに、何かと文句を言われるので、啓敏は街通りに出てからゆるんだゲートルのひもを結びなおした。
    千田武夫は黒の文官服にゲートルをまいて下駄をはいていた。頭が五分剪りで見た所、将校のようで、戦時中の標準的な日本人である。
    p302
    日本が敗けたら、自分のような日本人ではなく、また戸籍上、日本人名前になっている者はいったいどうなるかわからない。千田武夫はすっかり頭を抱えて、考えつかなくなった。自分のこと、姪のこと。あまり武夫が考え込んでしまったので、啓敏はつい自分の考えをぶちまけた。
    このまのびした養子兄貴も、福至れば智慧が生まれてくるもんだな、と感心した。思慮ぶかくになったもんだと思った。
    p304
    今まで、両親にはおしゃべりだった娘がきゅうに黙りがちになった。これがデングリを打って見せたりした娘だったのか、と啓敏は見るに耐えない気持ちである。阿蘭は縁談の話を聞いて、最初に感じたことは、自分にばちがあたった、と思った。
    p305
    しかし母の秀英は明るい顔をしていた。娘がいい所へ嫁に行けるので、やれやれと言った気持ちである。
    それが昭和十八年の正月ごろで、ちょっど、よりによって、その日、啓敏の大きくなった子牛が徵用になった。
    知らない人に引っぱられて行く牛の尻尾がお尻にくっついて振らないのを見ると、啓敏は涙が出た。これが兵隊のビフテキになるかと思うと声をあげて泣きたい気持ちである。
    p306
    学校の卒業式の“蛍の光”を思いだして、自分はそれに送らもせず、学校と縁が切れて、これでお嫁に行くのか、家とも別れなければならないのかと思うと切ない涙が止めようともない。
    p311
    庭先に咲いてる鶏頭や鳳仙花は、娘のかたみを物語っていた。彼は吸われたように、草花のそばにうずくまって、涙が出て胸をしめつけられた。
    p313
    牛小屋の母牛は、自分の子牛がどうなってるだろうか、彼女は静かに反芻しながら主人の顔を見ていた。鴨、鳶鳥などを見回り、田植えの終わった田圃の水ぐあいを見に行った。秀英の呼んでる声が聞こえたので、彼は星空に反映している暗い畔路をいそいで家に帰った。
    七つも年のちがう男を小娘がその名前を呼びすてにしている。三日だけ家を離れた娘とは思えないほど、娘が違い所から長いあいだ帰ってこなかったような気がした。しかし妻の秀英は夫と違って、大得意な顔で、娘の背中を押すように自分の部屋へ入って行った。
    p315
    朝陽が庭先の干竿にかかったときに、山の坂でにぎやかな話声が聞えた。里帰りは爆竹を鳴らさないから、里帰りの轎が、いきなり現れたような形である。
    p317
    「はい、でも体勢をととのえなくては、表だけでは」ーと言う戦時言葉はつかった。戦時言葉だが姑は感心する。
    p318
    啓敏は妻と一緒に庭先の小路に降りて、左手の丘の鼻先にあるような大石の石頭公様に、夫婦は肩を並べて拝んだ。わが家は石のように、風雨に堪え得るように祈った。
    P319
    阿ちゃんの姉の裾をにぎってる掌がゆるんだ。馬戲団のことは、姉のよんでる雑誌の写真を見て、姉に説明してもらったことがある。虎と一緒に眠ることは面白いが、絶えず鞭で撲られるのは堪らないと思ったからである。
    姉の裾を離して、口を尖んがらし、涙がぼろぼろ頬をつたった。
    p321
    皇民奉公会の分会で、青年劇をつくりだして、農民を慰めるつもりでいたが、あきたりない芝居で、村はさびれていくばかりである。
    娘の阿蘭に会ってみると、やや顔は緊張していたが、悲しんでいるほどでもない。かねてから覚悟していたようである。教育がそうさせていたのかもわからない。日本の雑誌ばかり読んでいたから、改姓名した自分よりも、半分は日本人になってるのかもわからない。それを見て、啓敏は戸惑って、どう言っていいか、わからない。
    p324
    彼は逃げるように、街の通りを夢うつつの思いでいそいで街はずれまで足をゆるめなかった。相思樹の並木は金砂を撒いたような花が咲いていた。啓敏は顔じゅう涙にぬれていた。
    p325
    阿蘭は、母が口で薬草を噛んで自分の足の傷をはってくた日を忘れることができない。
    阿ちゃんのそれを聞いて、啓敏は暗い顔をした。級長という言葉は胸くそが悪くなるほど嫌いなのである。母は何かしら、小さな兵隊を見送ってるようで心もとない。
    p327
    百姓は神に訴え、神にたよるほか、心に余裕がない。
    人間は宿命的にできていると彼女は思うのである。
    p328
    鴨(あひる)は台湾語で、ウムタアツ、ウムタアツ、すなわち日本語のシマラン、シマランとこぼしているようである。庭先に阿蘭が植えた草花は真紅に咲いて目にしみる。
    昭和十九年の夏近くには、高雄だけははげしい空襲があったことをこの山の麓街にもつたわってきた。
    台北の大直にある皇太神宮の鎮座祭に、大陸の広東から飛んできた友機が落下して、皇太神宮を全焼してしまった噂も街につたわってきた。
    姉はぐったりと天井を見つめてるだけで、いい子だから、またきてねと独り言のように言った。
    p329
    阿ちゃんは歌いながらも、山奥はつまらないと思った。街にいれば、にぎやかで、いろんな人の話が聞ける。またいろんなことが見られる。
    山にいると、単調な森と渓以外、目だつ色彩といえば庭先の草花だけである。しんとして、心のより所がない。
    p330
    それを聞いて、千田真喜男こと陳啓敏は体ごとに地べたへめり込んでしまいそうである。
    頭に浮かいたのは、自分の一生は騙されどおしだ。
    無学であるゆえに、自分の一生が苦労つづきだ。金鵄勳章と言った弟は、学問があるために、いろんな災難をまぬかれる。
    p331
    澄みきってる空には鳶が旋回しながら鳴いていた。蝉の鳴き声か耳鳴りか、見当もつかない。家のなかは蒸れてるが、ただならぬ空気で、顔に汗がにじんでくる。
    p332
    「神様!私たちは地獄へ落とされる理由がない。私たちは地獄へ落とされる理由がない。」
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