------------閱讀文章前,先來背個單字吧------------- しばしば adv. 經常;度重なるたびかさなる v. 反覆發生;つまむ v. 用手指尖輕輕夾住東西;年甲斐としがい n. 年齡相稱的行為;心やり n. 慰藉
それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説そうぐこうせつなどのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧坊が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。従ってここへ出入する僧俗の類たぐいも甚だ多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干すいかんも白の帷子かたびらもはいらない。まして柑子色こうじいろの帽子や、椎鈍しいにびの法衣ころもなぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻かぎばなはあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年甲斐としがいもなく顔を赤らめたのは、全くこの不快に動かされての所為しょいである。
最後に、内供は、内典外典ないてんげてんの中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連もくれんや、舎利弗しゃりほつの鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない。勿論竜樹りゅうじゅや馬鳴めみょうも、人並の鼻を備えた菩薩ぼさつである。内供は、震旦しんたんの話の序ついでに蜀漢しょくかんの劉玄徳りゅうげんとくの耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。
-----------------我的感想----------------- 這段描寫讓我感受到禪智內供的孤獨與焦慮。他一心想在別人身上找到「跟自己一樣長鼻子的人」,只是為了得到一點點安心,但遍尋不著,反而更強化了他的不安。即使身為僧人,他也渴望「有人和我一樣」這種情感上的認同。
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- 為什麼禪智內供會觀察別人的鼻子?他最希望發現什麼?
- 你覺得內供苦苦尋找「和自己一樣鼻子」的同伴,是否能反映出我們現代人內心的某種需求?
-----------------中文翻譯-----------------此外,內供也經常在意別人的鼻子。池之尾的寺廟裡經常舉行僧眾講經活動,寺內僧房緊密相連,湯屋每天都有僧人燒水,因此出入這裡的僧人與平民數量非常多。內供細心地觀察這些人的臉,只希望能找到一個和自己一樣有長鼻子的人,好讓自己稍感安心。因此,他的眼中根本看不到那些穿著深藍色水干或白色帷子的僧侶。更不用說那些戴著橘色頭巾或穿著棕灰色法衣的了,因為早已看慣,他幾乎視若無睹。內供看人,不是看臉,而是看鼻子。——但即使看到了勾鼻的人,也沒有一個人和自己一樣有那樣長的鼻子。隨著這樣「找不到」的次數越來越多,內供心中的不快也越來越深。有一次,他與人交談時,不自覺地用手捏了捏那垂下的鼻尖,突然發現自己這麼大年紀了竟然還會臉紅,這完全是被那份不快驅使的反應。
最後,內供甚至開始在佛教與世俗典籍中尋找有著與自己同樣長鼻子的人物,好作為一點點心靈的慰藉。但無論怎麼找,也沒有任何經典提過目連或舍利弗的鼻子特別長,龍樹或馬鳴也都是鼻子正常的菩薩。有一次他聽人順口提起蜀漢的劉備耳朵很長,他便忍不住想:如果說的是鼻子長,而不是耳朵,那我心裡應該會輕鬆得多了吧……
※ 本文所引用的《鼻》原文已屬公有領域,中文翻譯與語感分析為作者自行編譯與撰寫,歡迎引用但請註明出處,也歡迎叮嚀指教喔!
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