讀了許多日本近現代文學,我對二葉亭四迷(長谷川辰之助,1864-1909)的文學生涯情有獨鍾。這不全然是因為他被視為日本近現代文學的先驅者和奠基人之一,以及他在小說文體和創作方法與理論上有所建樹,更具體說來,他翻譯了十九世紀俄羅斯文學----屠格涅夫的小說,對於明治時期作家的文體風格產生了巨大影響的成就,是我探索不倦的源動力之一。進一步說,我1986年至1990年在東京苦學期間,不諳俄語的我正是藉由他的譯本加深對屠格涅夫作品理解的唯一途徑。從那之後,我迸發了一個思想,何不把他的日譯本作為視角和方法,置於比較文學(與翻譯)的視野中,深化自己的翻譯與轉譯的見解,同時也是為日後教學所需開闢道路。
必須說,與我當年苦學而未得的環境相比,現在可運用的資源要多得多,甚至到了目不暇給的地步。我手頭上這套《屠格涅夫全集》12卷本,是我返回台北之後的1994年才出現的,而且售價很貴,但對我來說,這套全集太重要了,它為我提供了譯本比較的必要的指向(路標),我才能有所依憑進入譯本比較的領域。以下,基於我個人的關注與興趣,對二葉亭四迷譯筆下的屠格涅夫的小說做一比較閱讀,也願與我同好的書友從中感受到日語與中文互為文本的意境之美。
イワン・ツルゲーネフ〈あいびき〉二葉亭四迷訳
秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧し気に見える人の眼のごとくに朗かに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽かに戦いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌りでもなかッたが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変ッた。あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢を帯び、地上に散り布しいた、細かな、落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような「パアポロトニク」(蕨の類い)のみごとな茎、しかも熟えすぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。
〈獵人筆記----幽會〉
秋天,大約是在9月半,我坐在白樺樹林裡。從清早起就下毛毛雨,一陣又一陣,不時被溫暖的陽光取代;這個是變幻無常的天氣。天空有時整個被蓬鬆輕柔的白雲遮住,有時有些地方會突然晴朗一會兒,這時會從散開的雲彩後面露出藍天,清澈而可愛,像美麗的眼睛。我坐著,眺望著周圍,傾聽著。樹葉在我的頭頂上輕輕地響著;單憑樹葉的響聲就可以知道現在是什麼季節。這不是春天那生機勃勃的歡聲笑語,也不是夏天輕輕地竊竊私語、絮絮叨叨,不是深秋那膽怯而冷漠地嘟噥聲,而是一種隱約可聞、引人入睡的閒聊聲。微風輕輕地吹拂著樹梢。太陽時而大放光明,時而被雲彩遮住,因此,被雨淋濕的樹林裡面也不停地變化著;有時整個樹林裡亮堂堂的,裡面的一切好像一下子都微笑起來:那不太稠密的白樺樹的細細的樹幹突然泛出白稠一般柔和的光澤,落在地上的小小樹葉突然像烏金一般閃閃發光,已經染上熟透的葡萄般秋色的高大繁茂的羊齒植物那優美的莖也亮晶晶的,在眼前繞來繞去,縱橫交錯。
あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまだ日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにパラパラと降ッて通ッた。樺の木の葉はいちじるしく光沢は褪めていてもさすがになお青かッた、がただそちこちに立つ稚木のみはすべて赤くも黄ろくも色づいて、おりおり日の光りが今ま雨に濡れたばかりの細枝の繁味を漏れて滑りながらに脱けてくるのをあびては、キラキラときらめいていた。鳥は一ト声も音を聞かせず、皆どこにか隠れて窃まりかえッていたが、ただおりふしに人をさみした白頭翁の声のみが、故鈴でも鳴らすごとくに、響きわたッた。この樺の林へ来るまえに、自分は猟犬を曳いて、さる高く茂ッた白楊の林を過ぎたが、この樹は――白揚は――ぜんたい虫がすかぬ。幹といえば、蒼味がかッた連翹色で、葉といえば、鼠みともつかず緑りともつかず、下手な鉄物細工を見るようで、しかも長いっぱいに頸を引き伸して、大団扇のように空中に立ちはだかッて――どうも虫が好かぬ。長たらしい茎へ無器用にヒッつけたような薄きたない円葉をうるさく振りたてて――どうも虫が好かぬ。この樹の見て快よい時といっては、ただ背びくな灌木の中央に一段高く聳えて、入り日をまともに受け、根本より木末に至るまでむらなく樺色に染まりながら、風に戦いでいる夏の夕暮か、――さなくば空名残りなく晴れわたッて風のすさまじく吹く日、あおそらを影にして立ちながら、ザワザワざわつき、風に吹きなやまされる木の葉の今にも梢をもぎ離れて遠く吹き飛ばされそうに見える時かで。とにかく自分はこの樹を好まぬので、ソコデその白楊の林には憩わず、わざわざこの樺の林にまで辿りついて、地上わずか離れて下枝の生えた、雨凌ぎになりそうな木立を見たてて、さてその下に栖を構え、あたりの風景を跳めながら、ただ遊猟者のみが覚えのあるという、例の穏かな、罪のない夢を結んだ。
有時周圍一切又突然泛著淡青色:鮮豔的色彩頓時消失,白樺樹只是白,沒有了光澤,白得像剛剛落下、在寒冷中閃爍不定的、冬日陽光還沒有接觸到的新雪,於是毛毛細雨又悄悄地、調皮地在樹林裡飄灑起來,簌簌響起來。白樺樹的是葉子雖然明顯的有些蒼白了,但幾乎全部還是綠的;只是有的地方有那麼一棵小小的白樺樹,整個都是紅色的或金色的,你可以看到,當陽光突然閃爍變幻地穿過被晶瑩的雨水沖洗過的細枝織成的濃蔭時,那小小的白樺樹, 在陽光中何等鮮豔奪目。聽不到一聲鳥叫,鳥兒都進了窩兒,不作聲了;只是偶爾能聽到山雀(白頭翁)那銅鈴般的帶譏笑意味的聲音,我來這片白樺林歇腳之前,我曾經帶著我的狗穿過一片高高的白楊樹林。說實話,我不怎麼喜歡這種樹----白楊樹,不喜歡那白中泛紫的樹幹,那擎得的高高的、像顫抖的扇子一般伸展在空中的金屬般灰綠色(連翹色)葉子,不喜歡那些呆呆地掛在長葉柄上的凌亂的圓葉不停的擺動。只有在有些夏日的黃昏,當它孤零零地高高聳立在一大片矮矮的灌木叢之上,正對著落日的紅光,閃爍著,顫動從根到梢染遍得一樣的黃紅色,或者在晴朗而有風的日子裡,整個白楊樹在碧空中颯颯搖動和絮絮低語,每一片葉子都充滿急不可待的神氣,彷彿都想掙脫,飛走,飛向遠方。----只有在這樣的時候,白楊樹才是可愛的。但是總的說,我不喜歡這種樹,所以不在白楊樹林裡歇腳,而來到白樺樹林裡,來到一棵小樹下,這棵樹的枝條很低,因而可以給我遮雨。在欣賞了一會兒周圍的景色之後,便睡著了。這樣安穩和甜蜜的感覺,只有打獵的人才能領略得到。(中文譯文引自:《屠格涅夫全集》12卷本 第1卷284-285(河北教育出版社,1994)。
說來奇妙,我讀完比較了這兩篇情景交融的描寫,對於日本自然主義文學的表現技法,頓時有了通達的理解,而我翻譯的思路悠然地指向了島崎藤村的代表作《破戒》、《黎明之前》,或許這就是閱讀與思索翻譯帶來的一場勝利。(2025年4月11日)