更新於 2023/05/30閱讀時間約 3 分鐘

映画『悲情城市』を語る

──日本の文芸評論家川本三郎X『悲情城市』の脚本家朱天文

日本の文芸評論家及び作家の川本三郎氏が、東日本大震災から12年目にあたるこの機会に、3年ぶりに台湾を訪れました。脚本家及び小説家の朱天文女氏と『悲情城市』の上映前の特別イベントで対談を行いました。
川本氏は40年以上にわたって執筆を続け、少なくとも50冊の作品を出版しています。台湾に紹介された作品は10冊に満たないものの、それぞれが読者から熱い支持と評価を受けています。
川本氏はトークで『悲情城市』として侯孝賢監督に対する敬意を表しつつ、当時初めて映画を見た際に台湾が日本時代にそのような歴史を経験していたことを知り、朱天文女氏に作品をどのように執筆したのか、どのような資料を参考にしたのか、映画制作と撮影の過程で政治的な圧力を受けたことはあったのかなど、興味深く質問しました。
今回、川本三郎氏は新経典文化出版社の招待を受け台湾を訪れ、講演も行いました。講演では自身の複数の著書で取り上げた東京生活や妻との旅行、食事にまつわる思い出、そして3.11の災害が日本社会に与えた影響などを共有しました。
脚本家の朱天文さんは、『悲情城市』は「228事件」に関するテーマ第一本の映画として、当時撮影されたとき、特に政治的な圧力は受けましたかと朱天文さんはトークで川本三郎さんの質問に答えました。
「映画制作の段階では台湾社会はすでに戒厳令解除前夜であり、メディアと社会は徐々に開放され、若いクリエイターたちは前世代に比べてより大胆でした。いくつかの制約はまだありましたが、自分も侯孝賢監督も政治的な干渉は受けていませんでした。」
ただし、『悲情城市』の制作時には、228事件に関連する文献が実際には少なかったです。彼らは藍博洲(ラン・ボーチュウ)氏の『振り子馬車の歌』を読んだほか、当時の事件に関与した家族から口述による話や情報を得るために努力しました。
川本三郎さんは、自身が当時日本で映画を見た際に、多くの日本人と同じく衝撃を受けたと述べました。彼らは日本がかつて植民地化した台湾が経験した政権移行の悲劇を全く理解していなかったことに気づき、以後、台湾の映画や創作作品を積極的に鑑賞する機会を増やし始めたと語りました。又、『悲情城市』の上映に、1989年の公開当時にはまだ子供だったり、生まれてもいなかったりするような若者世代がトーク現場には多かったと川本さんが感心しました。
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川本三郎
1944年東京生まれ。文学、映画、漫画、東京、旅などを中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望遠』(伊藤整文学賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『成瀬巳喜男 映画の面影』『老いの荷風』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』などがある。

朱天文
台湾の作家・脚本家。1956年、高雄鳳山生まれ。16歳で初めて小説を発表し、淡江大学英文科在学中に三三書坊を創立して小説やエッセイを出版。26歳のときに侯孝賢と運命の出会いをしたことで映画の世界に。『風櫃の少年』(83年)『童年往事 時の流れ』(85年)、そしてヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した『悲情城市』(89年)からカンヌ国際映画祭監督賞を受賞した『黒衣の刺客』(2015年)まで、侯孝賢監督のほとんどの作品の脚本を務めている。
2020年、台湾では有名な文学一家である自身の家族をテーマにしたドキュメンタリー『願未央』で映画監督デビュー。これまで日本で翻訳された小説に『世紀末の華やぎ』(1996年、紀伊國屋書店)『荒人手記』(2006年、国書刊行会)などがある。

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